家康が謙信に宛てた起請文にはなんと書かれていたか
この時の輝虎は、織田信長と北条氏政と同盟関係にあった。信長と輝虎は、すでに永禄7年には同盟関係を結んでいた。輝虎と氏政の同盟は、信玄の駿河侵攻にともなって氏政から要請してきたもので、同12年6月に一応の成立をみていた。ただしその6月に、信玄は義昭・信長に輝虎との和睦周旋を要請し、信長はそれを容れて、輝虎に信玄との和睦を要請している。これは「甲越和与」と称されて、しばらく和睦交渉がすすめられたが、元亀元年3月に輝虎が氏政との同盟を確定したことにともなって、7月に武田家からの使者を成敗し、武田家との交渉を断絶させていた。これにより信玄は、北条家と上杉家と敵対関係になっていた。
家康は、北条氏政とは和睦関係にあった。そのうえで輝虎に和睦締結をはたらきかけたのであった。交渉は家康側からおこなわれた。それをうけて8月22日付けで、輝虎は徳川家の外交担当の家老・酒井忠次と松平氏一族の大給松平真乗(親乗の子、1546~1582)に返事を出している。そこで、今後は申し合わせていく意向を示された。ここから具体的な同盟交渉が開始され、そして10月8日には、家康から謙信(輝虎の出家名、同年9月が初見)に宛てて起請文が出された。そこで家康が謙信に誓言約した内容は、次の2ヶ条であった。
一、信長と輝虎が入魂になるようできるだけ助言し、武田家と織田家(「甲尾」)の縁談についても破棄になるよう意見する。
ここに家康は、謙信との同盟を成立させたのであったが、それはまさに対信玄のための戦略によるものであった。家康はそこで、信玄とは手切れすること、信長と信玄との縁談を破棄させることに尽力することを誓言約したのである。
信玄との手切れを画策し強い恨みを買ってしまった
ちなみに信長と信玄との縁談というのは、信長嫡男の寄妙丸(信忠、1557~1582)と信玄五女の松姫(1561~1616)との婚約にあたる。それは信長と信玄の同盟の証しであったから、家康は、信長と信玄の同盟自体を破棄させたいと考えていたことがわかる。
こうして家康は、信玄との同盟破棄に踏み切った。家康がいつ、信玄に手切れしたのかは判明していないが、上杉謙信に起請文を出してしばらくのうちにはおこなわれたであろう。信玄はこのことをひどく恨みに思い、2年後に徳川家領国への侵攻を展開したことについて、「三ケ年の鬱憤を晴らす」ものと述べるのである。
信玄が、いかに家康の行為に腹を立てていたかがわかる。
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。近刊に『家康の天下支配戦略 羽柴から松平へ』(角川選書)がある。