ソリッド(固体)社会からリキッド(液状)社会へ

ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは、すでに1990年代において「家族は、資本主義社会での心のよりどころだった。だが、個人化によって家族はリスクの場に変わりつつある」と分析し、従来の伝統的な共同体であった家族は、「すでに死んでいるが、依然として形だけは生き残っているゾンビカテゴリー(死に体カテゴリー)」とまで表現している。日本の高度経済成長を支えた終身雇用はすでに崩壊しているが、家族もまた「終身家族」ではなくなっていくのだ。

ベックと並び称される社会学者ジグムント・バウマンも同様に、「社会の個人化」について言及している。かつては、地域や職場や家族といった安定した共同体の中でまとまって暮らすソリッド(固体)社会の仲に個人は属していたが、現代の社会は、各個人が動き回るリキッド(液状)社会となったと表現した。

地域・職場・家族という固体的集団共同体で生きるソリッド社会では、相応に制限や我慢が必要で、不自由を感じることもあったであろう。しかし、そうした不自由を補って余りある安心・安全・安定が提供されていたことも事実である。

リキッド社会においては、人々は自由に動き回れる反面、つねに選択や判断をし続けなければいけない自己責任を負わされることになる。まさに現代において各個人に突き付けられた問題といえる。

居場所さえあれば安心できるのか?

「居場所がない」と嘆く人たちがいる。しかし、居場所さえあれば安心なのだろうか。そもそも、かつてのような安心を提供してくれる居場所や所属先など、今となっては存在しない虚構や昔話になってないだろうか。「どこかに所属すれば、どこかに居場所があれば安心だ」という幻想に縛られ、ゴールも何もない荒野をたださまよい歩いてやしないだろうか。

「所属するコミュニティ」が崩壊する過程の中で、個人主義化が進み、婚姻制度や家庭の価値観が崩壊していと予言したのはチェコ生まれの経済学者ヨーゼフ・シュンペーターである。彼はそれを「社会のアトム化」と呼んだ。

電車内で自分のガジェットのみに視線を集中する人々
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確かにその通りに、日本だけではなく、世界で未婚化や少子化が進んでいる。シュンペーターは、その原因を資本主義体制による功利主義や競争心によるものだとして、資本主義は崩壊するだろうとも予測したが、その予測は現在もなお的中はしていない。

もちろん、行き過ぎた資本主義による歪みは至る所で顕在化している。経済的な格差は存在するし、その経済的格差が親から子へ遺伝するという世代を超えた「親ガチャ」と呼ばれる不平等もある。