大学で学んだ法学やフェミニズムに救われた

大学で学んだ法学は、わたしに、基本的人権、子どもの権利、信条の自由などを教えてくれた。フェミニズムは、わたしに、「女は不浄、ではない」と教えてくれた。さまざまな学問は、実家から自立し、縁を切ることを叶えてくれるだけの、市場価値のあるスキルをわたしに与えてくれた。わたしを自由にしてくれたのは、信仰ではなく、学問だった。

わたしの「新宗教」そのものはマイナーであり、「あの火、マジ熱かったよねー」などと分かち合えるようなものではない。しかし、「宗教2世問題」が世間に知れわたり、当事者が少しずつでもつらさを吐きだし、共有し、社会全体で解決策を探っていく動きが生まれつつあることには、希望を感じている。入っている宗教が違えど、さまざまな「2世のしんどさ」に、共感を覚える。

わたしの人生には、無数の分かれ道があった。

高校生の時、話を聞いてくれる教師が身近にいなかったら。父が倒れた時、母が祈りにさらなる救いを求めていたら。大学進学前に、実家の貯金が使い果たされていたら。司法試験だけでなく、就活にも失敗していたら。支えてくれるパートナーがいなかったら。就職氷河期が自分の世代にも続いていたら。「わたしは宗教2世だった」と過去形で語ることができずに、今でも戒律の檻に閉じ込められ、「不浄な女」として火の上を歩いていたかもしれない。

今は自由だが転落した人生を歩む可能性もあった

新宗教から脱出できたわたしには、恵まれた条件があった。自分の「神」を手放せたこと。親を嫌い、距離を取ること。わたしにとって、これらは大事な、平穏への入り口だった。しかし、より悪くなる可能性など、いくらでもあったのだ。

想像してしまう。安倍元首相を撃った山上容疑者のように親が財産を全て宗教に注ぎ込んでいたら。私が10年早く生まれていたために、就職氷河期に直面していたら。恋愛や友情に恵まれず、孤独状態であったら。そんな時、親の信じる宗教のイベントに、著名人や政治家が応援メッセージを送り、「お墨付き」を与えていたら。そして、もしもわたしの手元に銃があったなら。

わたしは暴力には絶対反対だ。暴力をふるうこと、それはかつてわたしに暴力をふるい、抑圧した母に負けることを意味する。実際、99.9%の宗教2世は、あのような蛮行はしない。とはいっても、誰もがほんの一瞬、心が弱くなるときがある。闇が、隙間に入り込む瞬間がある。誰もがその闇に、抗えるわけではない。

そんな時、引き金を引く指を止めるだけの、ささやかな力がほしい。そのために、ほんの少し、ほんの少し、誰かに助けてほしい。それだけなのだ。だからこそわたしは、人を頼る。友人を、恋人を、そして社会を頼って生きている。