住民登録なし、闇の歯医者、23歳まで広島…

資料中の警察や市職員の証言などから、警察が懸命に調査したものの、身元の特定には至らなかったことも見えてきた。整理すると、以下の6点が主な調査とその結果だったようだ。

・家主や近隣への調査では身元を特定できなかった。
・女性(「田中千津子」さん)も夫とみられる男性(「田中竜次(仮名)」さん)も住民登録はされていなかった。
・年金手帳については年金をかけていた期間が短く、かつ年金をかけていたときに勤務していた製缶工場もすでに存在していないため、身元の特定はできなかった。
・預金通帳や銀行についても調査したが、身元は特定できなかった。銀行が本人確認に使うはずの資料もなかった。
・女性は歯の治療をしており、主治医である大阪の歯医者を探し当てたが、いわば白タクのような闇の歯医者で、記録はなかった。
・製缶工場での労災事故時に治療を受けた病院のカルテに「23歳まで広島にいた、姉妹は3人」と話していたという記述もあったので、広島県や広島市にも照会してみたが、身元特定に至る情報は得られなかった。

最初の周辺調査を除けば、私たちがどうあがいてもできない調査を、警察はすでにやってのけていたわけである。

警察は記者以上の「取材」を尽くしていた

宮部みゆきの小説『火車』には、休職中の刑事が警察手帳が使えずに調査で苦労する話が出てくるが、やはり警察だからこそ調べられることが世の中には数多くある。裁判所から令状を取得した強制捜査はもちろんのこと、任意でも「捜査関係事項照会」という刑事訴訟法上の手続きを使えば、さまざまな情報を取得できる。それによほどの事情がない限り、警察から何か尋ねられて答えを拒む人は、そうそういないだろう。

一方、報道機関としての名刺はあっても実質的には何の権限もない記者は、役所に住民登録の有無さえ聞き出すことはできないし、銀行に照会をかけることもできない。歯についてはおそらく遺体の歯から治療痕が見つかり、治療履歴を徹底的に調べて歯医者にたどり着いたのだろうが、そんな芸当も警察にしかできないだろう。記者風情ができる範囲で調べ直していまさら何がわかるのかと、投げやりな気持ちにもなってくる。

なお、労災年金支給を示す、尼崎労働基準監督署発行の年金証書も残されており、年金手帳と同じ名前と生年月日が記されていた。「平成6年(1994年)12月15日」、「労災補償保険法によって給付決定を証す」とある。警察の捜査ではその後、年金支給を自ら打ち切ったことが判明。それにもかかわらず金庫に残されていた現金が多額であったため、警察署内では女性が工作員ではないかとの声が上がったという。