生まれ育ったのは“女の地獄”
三島由紀夫が、その美貌と演技力と歌唱力とを絶賛した現代女形の美輪(丸山)明宏。
明宏(旧名・丸山臣吾)は、昭和十年に長崎の丸山遊郭で生まれた。三島由紀夫との年齢差は十歳である。明宏の両親は、丸山遊郭の一画でカフェ「新世界」を経営していた。花街で幼少期をおくった明宏は、“男の天国”が実は“女の地獄”であることを知った。
家の隣には、劇場と映画館を兼ねる「南座」があった。明宏は、ここで坂東妻三郎や長谷川一夫の芝居を食い入るように見つめ、『女だけの都』『マタ・ハリ』『椿姫』『モロッコ』『ブロンド・ヴィナス』などの名作に親しんだ。
明宏が十歳のとき、長崎に原爆が投下された。
「阿鼻叫喚の交響楽がシンバルやティンパニーの乱打とともに、何十万の悲鳴のコーラスを叫び、この世の果てまで届くよう助けを求めて哭いていました」
新聞広告「美少年募集!」
終戦後、明宏は海星学園に進んだ。
海星学園は、オランダ坂の石畳をのぼった丘の上にあった。白亜の校舎の頂からは、聖母マリアの像が長崎の街を見守っていた。
「長崎のコバルト色の空や港、中間色の町並みを見下ろす丘の上にある学校の講堂で、ピアノを弾いて歌っていたあの頃が、一番美しい思い出となっています」
しかし明宏は、突如として海星学園を退学して上京する。
ティノ・ロッシの「小雨降る径」に魅了されて、シャンソン歌手になるために国立音楽大学附属高校に転じた。
――美少年募集!
アルバイトを探していた明宏の眼に、新聞広告の文字が飛び込んできた。
美少年を集めていたのは、銀座五丁目の「ブランスウィック」である。ところがこの店は、ただの喫茶店ではなかった。
有楽町の一画にあるルドンといふこの凡庸な喫茶店は、戦後に開店していつかしらその道の人たちの倶楽部になつたが、何も知らない客も連れ立つて入つて来て、珈琲を飲んで、何も知らないまま出て行くのだつた。
店主は二代前の混血を経た四十格好の小粋な男である。みんながこの商売上手をルディーと呼び慣はしてゐる。
(三島由紀夫『禁色』)