先生の私服への恐れは正当?
【TNT】先生方は「私服を許すととんでもない恰好をしてくるやつがいるだろう」と勝手に恐れている。でもおそらく、生徒はとんでもない恰好をしてきて浮くことを理解しているのです。派手な格好をしている、なめられたくなくて怖そうな服を着てくる生徒もいるでしょう。でもそれを、先生方が「ほら見たことか」となるのではなく、対話の機会にしていくべきなのではないかと思いました。
かつては、こうした生徒の心の変化を読み取る上で、服装などの変化を見とるのは、有効な手段だったと思うのです。「目つきや表情が悪くなった」から次に「服装等が変わった」、だから変化の原因となっている心情に向き合おう、と。でも、今は「まず服装を指導する」。これでは心情の部分が全く解決していなくて、恰好だけ直すのなら、その指導は一体何のために行っているのでしょうか。
でも、一部の教員は「恰好をちゃんとさせていれば、『荒れ』が始まらない」と信じている。本当は「荒れ」の兆候を検知するためのものではないのでしょうか。
【内田】スカート短いのなら、それはなんでなのだろうと聞いて、その子の思いを理解していくきっかけだと。
【TNT】最初は「どうしたの?」のはずなのに「違反じゃないか! 長くしなさい」などになっている。あの荒れた時代を立て直した先生方の中には、校則指導といいながら、心を見ていた指導をされていらっしゃった人もいたと認識しています。ある意味、ただだらしないだけの子はスルーしていたこともあったのです。
その下の世代の教員が、これを引き継いでおらず、「恰好」から入ると、教師と生徒の乖離や信頼関係が築けなくなることもあるのだと思いました。
【内田】それはすごい分析ですね。見た目の問題ではなく心にアプローチするのが生徒指導。すでに私服率の高い長野県はいかがでしょうか。
私服でも制服でも「貧富の差」は見える?
【長野】長野は半々くらいの割合で、制服だけの学校と私服の学校があります。私は両方の学校に勤務したことがあります。私服の学校は形式的な制服もありません。制服のようなものを着ている生徒は、いわゆる「なんちゃって制服」です。
【内田】それでいて普通に回っているのですか。
【長野】先の生徒指導のコストと校則の観点で考えると、制服がない方が、着こなしについて指導しなくてよいので、指導に割くコストは少ないです。自由に選んだ服でいるので、指導の余地は全くありません。