極端な事例を持ち出して職員を問い詰める
また別のとき、車イスへの移乗にもたついた女性職員に「もし、戦争が起きたら、どうするのよ。みんな死ぬよ」とか、風呂場の水道の蛇口をしっかり締めなかった職員に「水害が起きたら、あんたが最初に溺れるよ。しっかりしてよ」などといつも極端な事例を持ち出し、こめかみに青筋を立てて怒鳴る。
そんなアホなと思いつつもちろん黙っている。この仕事には忍耐力が求められるのだ。
たしかに、彼女がいなければ施設が回らない。それは事実であり、今まで施設内で重大事故が起きていないのも、信じられないほど細かいところにまで気がつく彼女の実績だと言えなくもない。
北村の持つ経験や資格が必要なのだ。さて、北村がいつもの調子で幸助君を責め立てる。
「窓を開けて換気してカーテンを開ける。これ常識だと思いますけど、あんた何を聞いていたの? 2日前に説明したでしょ。メモらなかったの?」。彼女が幸助君に詰め寄る。
「いや、やす子さんから、外が雨だから開けないでと言われたものですから」
彼は消え入りそうな声で言い訳した。「何、寝ぼけたことを言っているの。カーテン開けてごらんよ」。指示に従い、彼がカーテンを開けると、外は溢れんばかりの日光が射していた。1時間前まで降っていた雨は、いつの間にか上がっていたのだ。
新人への執拗ないじめが始まる
「でも、そのときはまだ雨が降っていて……」
「変な言い訳しないでくれる。こんなに明るいのに、電気代がもったいないでしょ」
言いながらわざとらしく北村が室内灯をパチンと消す。「もういいから、さっさとリビングの清掃に行って」。北村がヒステリックな声をあげる。
「あの、やす子さんに訊いてもらえば、わかると思うのですけど」
幸助君のこの一言が火に油を注いだ。彼女は、彼を血走った目でにらみ、「あんた、自分のミスをやす子さんのせいにするの?」と怒鳴る。
2人の間で、やす子さんは明らかに動揺している。というか北村を怖がっている。「ねえ、やす子さん、僕にそう言いましたよね」幸助君が尋ねる。「えっ、何を」やす子さんには認知症の症状があり、1時間前の彼とのやりとりなどまったく覚えていなかった。
それとも北村を恐れたか。彼が、素直に北村の叱責を受け入れなかったことがすべての災いのもとである。この場合、北村の言うとおりに従うことが「正解」だと、ほかの職員なら経験則から知っているのだが、入りたての幸助君にそれを理解せよというのも無理な話かもしれない。
そのときから北村の執拗ないじめが始まった。
本来なら、別の職員から彼へ、その日の仕事の指示がされることになっていたが、北村が直接、仕事の段取りを指示するようになった。彼がほかの職員へ尋ねても、みな当たり障りのない助言をした。みなとてもいい人たちなのだが、北村が怖いのだ。