いまやスマートフォンは生活に欠かせない。だが、それは新しいリスクと隣り合わせだ。作家の藤原智美さんは「情報のデータ化が漏れないはずの個人情報を露出させ、気づかぬうちに『デジタルな私』が作り出されている」という――。

※本稿は、藤原智美『スマホ断食』(潮新書)の一部を再編集したものです。

「リアルな私」に替わってスマホの中に「デジタルな私」が形成される

スマホはとても便利な情報ツールです。「スマホのない暮らしなど考えられない」というのが、一般的な生活感覚でしょう。スマホはツール=道具という言葉では、もはや言い表せないほど大切なものといえるかもしれません。それは私たちの心身に密着したもので、まるで身体の一部分であり、「情報」を操る臓器となってしまったかのようです。

長文のメッセージを両手の親指でまたたく間に仕上げてしまう若者などを目にすると、私はその指さばきに驚嘆します。そんなスマホのヘビーユーザーである大学生から、興味深いセリフを聞きました。

スマートフォンを操作する人
写真=iStock.com/metamorworks
※写真はイメージです

2020年、コロナ禍のせいで彼女は、まったくといっていいほど大学に通えませんでした。その間、講義もレポートの提出もネットですませたということです。友人とのコミュニケーションもほとんどはネットになりました。学習塾のアルバイトもなくなり、余暇時間はスマホに浸っていたといいます。21年になると、大学が再開し、コロナ禍以前の学生生活がもどってきましたが、彼女の気分はすんなりとは元に戻りませんでした。

彼女の心境をひと言で言い表すと「リアルな私は重い!」だそうです。

コロナ禍では、講義への出席も友人との交際もスマホの中の「私」が代行してくれました。しかし、大学が再開してアルバイトも始まると、生身の私の出番が圧倒的に増える。それが「面倒で重い」というのです。スマホの中の「私」は、自宅で自由にくつろぎながら友人と交わり、満員電車に揺られて大学に通う必要もない。しかしリアルな私は何をするにも相応の時間とエネルギーをようする。さらに他者へのリアルな対応は、スマホ上とは違って、ひどく気疲れするといいます。

コロナ禍で「他者とのリアルな交わりが失われると人は孤独感を覚える」。これが普通の感覚かと思っていたら、反対に「リアルは重く面倒」といわれて、私は驚いたわけです。

スマホの能力が向上するほど、人はスマホのとりこになっていくようです。これからも私たちはますますスマホの中の「私」に自己をゆだねていくことになるのでしょうか。はたしてそれでいいのか? 疑問が残ります。

私という存在が「リアルな私」から「デジタルな私」へと入れ替わっていく。そういう時代に人はどうやって人生を送っていくのか不安です。

そもそもスマホの中につくりあげられるもう一つの私、デジタルな私とはどんな存在なのでしょうか?