小さな負担で理解するために「ひとくくり」にする

新型コロナの感染クラスターが確認された大学生といっても、感染を防ごうとすることもなく宴会ではしゃいで感染してしまった学生と、オンライン授業によりその学生たちとは接触可能性が全然なかった学生とでは、接した場合の感染リスクの高さはまったく違います。しかし、“同じ○○大生”ということでひとくくりにされて差別的な扱いを受けます。感染者の家族といっても、ずっと同居して寝食を共にしている家族メンバーは感染している可能性が高いですが、別居している家族メンバーは当てはまりません。けれども、“感染者を出した家の者”とひとくくりにされて偏見の対象となります。

ここでのポイントは「ひとくくり」です。つまり、その問題に対する関連の強さはひとりひとり異なるにもかかわらず、ある集団の一員であるとひとくくりにされて否定的な扱いを受けるということです。特定集団に対する固定観念や、否定的な先入観や偏見はステレオタイプと呼ばれますが、この概念は100年ほど前、ウォルター・リップマンというジャーナリストにより提唱されました。

世の中は本来複雑なもので、ひとつひとつの物事や状況や、一人ひとりのありようも千差万別です。そして、それらを詳細に理解するには非常に高い認知的な負担が必要になります。ところが私たちの認知的な能力はそれ程高いものではなく、その負担に耐えることはできません。そこで、世界を単純化し、小さな負担で理解することになります。その単純化の方法が、対象をグループ化し、共通の性質をもつ集団として理解することです。これによって小さな負担で、個々の人間についての性質を集団に対する認知に基づいて判断することになります。

差別や偏見は、頭の中で作り上げられた好ましくない性質が、その集団全員に共有されていると考えることがベースにあります。ひとりひとりの違いを個別にみるよりもその方がラクだからですが、人に限らず、さまざまな事物を理解しようとするとき私たちは認知能力の限界を補うべく、カテゴリーに依存した情報処理をするようになっています。

ただ、カテゴリーに依存しているといっても、そのカテゴリーは必ずしも否定的な性質を想定した先入観となる必然性はないように思われるかもしれません。また、「この学生は、感染クラスターの発生した学生たちと接触した可能性はない」、「感染者の家族といっても、別居している」といった個別の情報も入ってくるでしょうから、それによって偏見は是正されるはずだ、と思われるかもしれません。

それは確かにそうなのですが、犯罪被害者や厳しい状況に置かれている人が望ましくない性質の持ち主だからそうなったんだ、と考えられやすかったり、個別の情報が提供されているはずなのに、その個人への否定的な評価が継続されやすかったりする心のしくみがあるのです。それらを説明する公正世界誤謬ごびゅうと確証バイアスについてみていきましょう。

人間は因果応報的な信念を持ちやすい

新型コロナ禍の中、厳しい労働条件におかれ、大きな負担を強いられている医療従事者が地域社会から排除されるというのはいかにも理不尽なことです。感染者や感染者家族が回復し、十分に感染リスクが下がっても不当な扱いを受け続けることも同様です。しかし、しばしば「ひどい目にあっている人は、そうなるだけの理由があるのだ」と考えられがちです。

これを説明する心理学モデルがメルビン・ラーナーによって提唱された公正世界信念と呼ばれるものです。それによると、われわれは「世の中は公正にできていて、悪い人・悪行には悪い結果が返ってくるものだし、良い人・善行には良い結果が返ってくるものだ」という因果応報的な信念を持ちやすいのです。この信念を持つことには肯定的な側面もあり、例えば、目標を立てそれに向けて努力することや主観的な幸福感の高さに関連しています。けれども一方、この信念は正しい行いをしているのに理不尽にひどい目にあわされている人の存在を容認しにくくします。それを認めてしまうと自分の信念が脅かされるからです。