豚肉料理が東京から同心円状に普及した

「西の牛肉、東の豚肉」というコントラストが成立した理由としては、豚肉料理が東京から同心円状に普及したからという説が一般的である。

そもそも仏教の影響などで、日本では先行して肉食になじんでいた隣国の中国や朝鮮半島と異なって肉畜飼養は一般化していなかった。明治維新以降、日本で肉食が解禁されて、まず普及したのは牛鍋などに代表される牛肉であった。

屋台の牛飯(牛どん)や兵隊食として牛肉の大和煮缶詰が普及したのも大きかった。欧米では牛肉がメインだった影響であろう。残飯のエサで飼育されることもあった豚の肉は不浄感から嫌われたということもあったかもしれない。軍隊食から普及したカレーライスの肉も明治期にはまだ牛肉だけだった。

こうして、牛肉食は全国に広がっていったが、牛肉食の普及や軍隊食への導入により牛肉の価格は大きく上昇していった。

明治期の牛肉ブームを大正期に豚肉が凌駕

そうした中、大正7(1918)年に、2つの画期的な豚肉料理であるカツカレーとカツ丼が東京で相次いで誕生した。さらにカレーライスにも豚肉が一般的に使われるようになった。値段の張らない手ごろな肉料理を求めるニーズに応え、俗に「明治の三大洋食」と呼ばれるコロッケ、トンカツ、カレーライスが大正時代に豚肉料理として庶民の間に広がったのである。

こうして生まれた豚肉文化が、その後、東京から北関東や東北に伝わって、「東の豚肉」分布ができ上がったと考えられる。

図表8には、豚肉がやっと普及し始めた1924年段階の都道府県別の家畜飼養頭数を図示した。飼養頭数で馬が多いのは、東日本と九州。近畿、中四国では馬は少なく、牛が大勢を占めていたことが分かる。

また、豚が飼養されていたのは、豚肉料理が開発された東京を中心とした同心円状の関東、東山、東海といった地方、および豚が明治以前からの伝統料理だった沖縄、鹿児島に限られていた様子をうかがい知ることができる。

鶏の飼養羽数を見ると、各地方ブロックで、北海道、茨城、千葉、愛知、福岡、鹿児島といったような拠点地域が存在していた様子がうかがえる。九州全体(あるいは東北)への鶏肉消費の傾斜は戦後の展開だと思われる。