ちなみに、南洲とは西郷の雅号で、明治に入ってからは、南洲、南洲翁おうなどと呼ばれるようになった。手抄とは手ずから書き抜くことである。『言志四録』の著者佐藤一斎は、昌平坂学問所の儒官、現在でいえば東京大学の総長まで務めた儒学者である。門下には、佐久間象山、横井小楠、山田方谷(ほうこく)らがいて、佐久間象山には勝海舟や吉田松陰が薫陶を受けるなど、一斎の教えに接した幕末動乱の志士は少なくない。
しかし、西郷はその謦咳に接する機会に恵まれなかった。西郷が『言志四録』を読んだのは、二度目の流罪先、沖永良部島の獄中だった。行李3箱分の書物を読破し、「学者の塩梅(あんばい)にて可笑(おか)し、学問はおかげにて上がる」と年賀状に記しているほどだが、なかでも心動かされた書物が『言志四録』だったのである。
流罪が解け沖永良部島を脱した西郷は、内村鑑三言うところの「始動させる原動力として」、革命=維新という運動を猛烈な勢いで遂行していった。『言志四録』は、どのようにその精神的支柱になっていたのだろうか。『南洲手抄言志録』を編纂(へんさん)した秋月が、条文との符合を試みるかのように、自らが伝え聞く西郷の言動を注釈として加えている。それを手がかりに、西郷にとっての『言志四録』をみてみよう。
人生行路のうちには、暗い夜道を行くようなことがあるが、暗夜を心配することなく、ただただ自分の強い意思を頼りにするがよい、という意味である。
この条文の注釈には、鳥羽伏見の戦いにおいて幕府軍の砲声を聞いて戦況に不安を覚えた岩倉具視に、西郷が「ご心配には及びません、西郷がおりますから」と答えたことが記されている。
大政奉還によって倒幕が成就したものの、政治的には「暗夜」状態にあり、新政府樹立への強い思いを「一燈」として、西郷が戊辰戦争を突き進んでいった、と読み解けそうだ。