そして、悲劇の女王の真打ち、フランス王妃マリー・アントワネットの話をしましょう。彼女もまたハプスブルク家伝統の政略結婚の犠牲者だったのかもしれません。能力に合った小さな国に嫁いでいれば、非業の死を遂げることはなかったのかも。

写真=Getty Images
ファッションアイコンから断頭台の露に
マリー・アントワネット王妃
フランス●1755~1793
つやつやとした真珠のように真っ白い肌に、ほっそりとした体形。バラを持つ姿もファッションの女王らしく洗練されている。有名なこの肖像画は、王室からひっぱりだこの女流画家、ヴィジェ・ルブラン作。
【光】子どもが生まれてから遊びをやめ、愛情深い良き母親に変身。断頭台に送られ処刑寸前までエレガントさを忘れなかった。
【影】名家出身のプライドが高すぎて苦労知らず。人間関係においても、駆け引きを駆使するなどの頭脳プレーができない。

アントワネットが結婚したのは、欧州一華麗な王室の王子(のちのルイ16世)。しかし、嫁いだときにはすでにフランスの財政は傾いており、彼女のぜいたくざんまいだけが国庫をからっぽにした原因ではないのです。そんな事情を差し引いても偉大なる母、オーストリアのマリア・テレジア女帝(1717~80)の度重なる忠告に耳を傾けず、ファッション、賭け事、芝居などと遊興ざんまいだったのは彼女の愚行。貧しい民衆の暮らしに思いをはせることはなかったのです。夫の性的機能不全から長い間子どもをつくれなかったのも、遊びに走った理由です。

典型的な美女というわけではありませんが、上品で優雅なものごし、ドイツ語なまりの少し幼いフランス語で周囲の人々を魅了したアントワネット。スウェーデン貴族のフェルゼンが命を賭してまで亡命させようとしたのも、王妃の魅力ゆえ?

いずれにしろ決断力のない夫、勉強不足のアントワネットのコンビでは、亡命の失敗は避けられなかったことでしょう。しかも夫妻は断頭台ですっぱり命を絶つことができましたが、残された王女は不幸な人生を送り、王子は牢獄で家畜以下の扱いを受け10歳で惨死。“親の因果が子に報い”というにはむごすぎます。