▼運のいい女と悪い女
国王や王妃の運がいいとその国も幸せになり、その逆もしかりです。“運”を引きつける鍵はどこにあるのでしょう?
没落する王朝と、栄えゆく王朝の女の運命
「戦争はほかのものにまかせておくがいい。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚すべし」。オーストリア・ハプスブルク家の家訓はあまりにも有名です。中世から20世紀初頭まで、約650年も続いた王朝で、冒頭の家訓どおり、ほかの王室との婚姻外交で体制を維持し領土を拡大しました。しかし政略結婚は時に不幸を生むもの。その犠牲者の1人が、ハプスブルク家随一の美女といわれたエリザベート皇后です。
エリザベート皇后
オーストリア、ハンガリー●1837~1898
宮廷御用達画家・ヴィンターハルター作。現存の写真から“盛り要素なし”の正真正銘の美女に描かれている。28歳ごろ。空虚な内面を表すかのように目は笑っておらず、背景も暗く不幸感が漂う。
【光】類まれなる美貌から、オーストリアとハンガリーの二重帝国という無理な体制時でも人気を博した。
【影】自分の外見に固執しすぎて、老いを受容できない。現実逃避し、仕事も家庭生活も放棄した。
彼女は在位68年の長期政権を誇ったオーストリア皇帝でハンガリー国王も兼ねたフランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)と結婚。でも、きちょうめんで勤勉な夫とは反対に、堅苦しい宮廷の生活が大嫌いでおしゃれや遊び好き。自国にいないで、いつも外国をめぐる旅に出ていました。それでも国民から人気があったのは、現在でいえばスーパーモデル級の美貌とスタイルの持ち主だったことが一因でしょう。50cmほどの極細のウエストは壮絶なダイエットで維持し、空腹のまま長時間ウオーキングして気を失うこともあったほど。長い髪は卵入りのコニャックで、3時間もかけてトリートメントするなど、空虚な生活を埋めるかのように、自分の外見磨きに必死でした。
しかしその美貌も“時間”には勝つことができず、年齢とともに人前に立つことを嫌がるようになります。若いころ美女だった人ほど、老いを受け入れがたいのかもしれません。さらに晩年は不幸続き。長男が愛人とピストルで心中し、その悲しみから逃れるように放浪の旅を続けます。そして自分自身は、「王族なら(殺す)相手は誰でも良かった」という無政府主義者に、旅先で暗殺される最期を迎えました。彼女の死後、ハプスブルク家の衰退は止められず、第1次世界大戦の勃発とともに王朝は消えゆくのです。
一方、ほとんど同時代に生きたイギリスのヴィクトリア女王はエリザベートより年齢は18歳上ですが、ずっと長寿。背が低く美人ではないけれど、若いころはぽっちゃりとかわいらしい人だったことが肖像画からもわかります。
19世紀、イギリスの黄金期を築いた彼女が幸運だったのは周囲に有能な側近がそろい、世界中の植民地から搾取した富でどんどん国が繁栄していったこと。学究肌で穏やかな夫が亡くなった後は、鬱(うつ)状態で数年引きこもりになりますが、馬番と恋愛をして、女性としての自信を取り戻します。この馬番との出会いも側近たちの手引きによるものとされます。国民にとっては由々しきスキャンダルですが、国が豊かで潤っていたため、恋愛ぐらいは大目に見てくれたよう。恋人の死後、女王は彼の弟にあてた手紙に「『私ほどあなたを愛した人はいませんよ』といつも彼に言ったものです」と書いた。愛に生きた女王であることが伝わります。
ヴィクトリア女王
イギリス●1819~1901
豪華なローブ姿の若き日のヴィクトリア女王。150cm足らずの小さな体で、すでに肥満の傾向が出ている。元来の生真面目な性格からか、表情もやや硬い。でも大きな青い目が魅力的だ。
【光】夫を愛し、恋人を愛し、純粋で情熱的なかわいい女性。仕事にもエネルギッシュに取り組む。
【影】「君臨すれども統治せず」の表の顔とは裏腹に政治に口をはさむ。多くの子どもとも不仲だった。
▼先を見通せる女と見通せない女
1789年のフランス革命で欧州に激震が走ります。断頭台に散った王妃がいれば、身の安全と王室を守った女王も。その差は何だったのでしょう?
遊び好きの美女と、勉強家の不美人の明暗
18世紀にロシア帝国をかつてないほど強大に発展させたエカテリーナ2世。容姿に恵まれず、しかもドイツの貧乏貴族出身の彼女は、血のにじむような努力を重ねてロシア語を学び、ロシア人になりきりました。前女王亡きあと、愚鈍で粗暴な夫を死に追いやり、ロシア人の血が一滴も流れていないのに女帝の栄冠を勝ち取ります。常に学習を怠らず、人心掌握術に長(た)け、将来を見通す力が卓越していたからでしょう。
1789年にフランス革命が起きて、後述のマリー・アントワネットが処刑。エカテリーナは革命の波をロシアに波及させまいと防戦します。そしてフランス王政の失敗は、王と側近が無能であることに起因していると見抜いていました。とても聡明(そうめい)ですが“英雄色を好む”の女版で、21人も愛人がいたそうです。しかし世継ぎの息子(不倫相手の子どもとされる)との関係が最悪だったのが人生の汚点。息子は母を憎み、即位後にエカテリーナの政策をすべて否定し、最後は暗殺されてしまうのです。
エカテリーナ2世
ロシア●1729~1796
デンマークの宮廷画家エリクセン作。下から見上げている構図なのに、リアルな筆致によって、とにかく背が低かったことがわかる。着飾ってはいるが、あか抜けない印象なのも、肖像画としてはかなり正直だ。
【光】恋多き女性だが、男性に溺れることはない。有能な恋人だけを政治のパートナーにする。
【影】しゅうとめに息子を奪われると、自分も全く同じことをする。親子の信頼を築けなかった。
さて、エカテリーナの死後しばらくして、フランスではナポレオンの時代に突入します。彼のおいで後に皇帝となったナポレオン3世(1808~37)に見初められたウージェニーがスペインよりこし入れします。頭の回転が速く、政治に口出しせずにはいられないタイプ。メキシコを手に入れるため、そこで傀儡(かいらい)政権づくりを進めたのも彼女の入れ知恵だとか。しかしこれが失敗に終わったため、ナポレオン3世夫妻は非難を浴びます。しかも次にドイツ北東のプロイセンとの戦争に老いた夫を送り出し、捕虜にしてしまうという失態も。戦争に惨敗したことで国民の憎悪はウージェニー王妃に向けられます。そこで彼女はアントワネットの二の舞いにならないようフランスから即脱出。なんと94歳まで生き延び、第1次世界大戦で名だたる王室が崩壊するのを、1人で見届けます。
ウージェニー王妃
フランス●1826~1920
ヴィンターハルター作の結婚記念肖像。26歳ごろ。垂れ目で優しげな印象だが、実は強気な性格。右手の下に王妃の証しの王冠があり、ナポレオン1世との結びつきを思わせるローマ風庭園が背景に。
【光】上昇志向が強く、玉のこし婚に成功した野心家。亡命に関しては、先例からしっかり学んだ。
【影】王妃ながらとにかく政策に口を出しすぎた。そして、どれも結果的に失敗に終わらせてしまった。
そして、悲劇の女王の真打ち、フランス王妃マリー・アントワネットの話をしましょう。彼女もまたハプスブルク家伝統の政略結婚の犠牲者だったのかもしれません。能力に合った小さな国に嫁いでいれば、非業の死を遂げることはなかったのかも。
マリー・アントワネット王妃
フランス●1755~1793
つやつやとした真珠のように真っ白い肌に、ほっそりとした体形。バラを持つ姿もファッションの女王らしく洗練されている。有名なこの肖像画は、王室からひっぱりだこの女流画家、ヴィジェ・ルブラン作。
【光】子どもが生まれてから遊びをやめ、愛情深い良き母親に変身。断頭台に送られ処刑寸前までエレガントさを忘れなかった。
【影】名家出身のプライドが高すぎて苦労知らず。人間関係においても、駆け引きを駆使するなどの頭脳プレーができない。
アントワネットが結婚したのは、欧州一華麗な王室の王子(のちのルイ16世)。しかし、嫁いだときにはすでにフランスの財政は傾いており、彼女のぜいたくざんまいだけが国庫をからっぽにした原因ではないのです。そんな事情を差し引いても偉大なる母、オーストリアのマリア・テレジア女帝(1717~80)の度重なる忠告に耳を傾けず、ファッション、賭け事、芝居などと遊興ざんまいだったのは彼女の愚行。貧しい民衆の暮らしに思いをはせることはなかったのです。夫の性的機能不全から長い間子どもをつくれなかったのも、遊びに走った理由です。
典型的な美女というわけではありませんが、上品で優雅なものごし、ドイツ語なまりの少し幼いフランス語で周囲の人々を魅了したアントワネット。スウェーデン貴族のフェルゼンが命を賭してまで亡命させようとしたのも、王妃の魅力ゆえ?
いずれにしろ決断力のない夫、勉強不足のアントワネットのコンビでは、亡命の失敗は避けられなかったことでしょう。しかも夫妻は断頭台ですっぱり命を絶つことができましたが、残された王女は不幸な人生を送り、王子は牢獄で家畜以下の扱いを受け10歳で惨死。“親の因果が子に報い”というにはむごすぎます。
▼血をつないだ女とつながなかった女
血なまぐさい政争の中では、世継ぎをもうけることが最重要課題。血統を残すか残せないか、運命の分かれ目はどこに?
偉大な人物を産んだ、“中継ぎ”の存在の価値
オーストリア・ハプスブルク家の分家スペイン・ハプスブルク家。その始祖はカルロス1世(1500~58)。16世紀初頭から17世紀末まで、スペインはアメリカ大陸やフィリピン、マリアナ諸島までの広大な植民地を持ち、輝ける時代を築きました。そのスペイン史の王族ナンバーワンヒロインが、カルロス1世の母、フアナ女王です。
夫はハプスブルク家神聖ローマ皇帝の息子フィリップ美公。エキゾチック美女のフアナとは、政略結婚ながらお互いに引かれあい、会ってすぐに情熱的に愛し合います。しかしフィリップが妻に飽きて浮気に走ると、彼女は精神を病み始めます。夫の突然死でそれが顕在化し、“狂女フアナ”と呼ばれました。妊婦ながらも、夫のひつぎや大勢の家臣とともにスペインの荒野をさまようという理解しがたい行動に出ます。それからの彼女は40年間も幽閉されますが、女王の座を絶対に譲ろうとせず、息子とともに名目上の共同統治者として生き続けます。なんら政治に関与することはなくても、カルロス1世という傑物を産んだことで、スペインは「日の沈むことなき世界帝国」への道を歩み始めます。
フアナ女王
スペイン●1479~1555
プラディーリャ作。フィリップの葬列の様子を描いた。立派なひつぎはハプスブルク家の紋章入り。フアナに同情することなく、誰もがうんざりした顔。長く続いた異常な葬列であることを表す。
【光】美男で有名だった浮気性の夫を愛し抜き、11年間の結婚生活で6人もの子をなすほど。一途な愛情を貫いた。
【影】嫉妬深く病的なほどのヒステリー気質が怖い。夫の愛人の髪を切って暴れまわるという痛々しさ。
優れた人物を産み、同じく歴史に名を残した女性の1人といえば、イギリスのヘンリー8世(1491~1547)の妻、アン・ブーリン。ヘンリー8世は、生涯で6度も結婚しましたが、世継ぎの王子を産まない妻たちを次々と離縁、または処刑。アンも王子を死産したので、でっちあげの罪を着せられて斬首されました。しかしそこからが歴史の皮肉。アンが産んだヘンリー8世の娘エリザベスが、のちのイギリス女王、エリザベス1世となるのです。
アン・ブーリン
イギリス●1501ごろ~1536
処刑2年前の肖像画とされる。特別美女ではなく良い家柄の出身でもないが、フランス宮廷で身につけたあか抜けたしぐさなどでヘンリー8世を魅了した。イニシャル「B」のチョーカーもおしゃれ。
【光】処刑直前でも慌てず騒がず。夫ヘンリー8世を祝福したが、最後まで恩赦を期待していたとの説もある。
【影】王の元恋人だった姉妹が簡単に捨てられた。男の残酷さも移り気なのも知っているのに、王妃の座に執着した。
父に母を殺されたエリザベスは、一時的に私生児の身分に落とされます。異母姉に疎まれてロンドン塔に幽閉されるなど、かなり辛酸をなめました。しかし、忍耐と勤勉、知恵と人望で女王の座を得て、45年間玉座に君臨し、イギリス絶対王政を確立。「国家と結婚した」と宣言し“処女王”となります。しかし実際には恋人との間に子どもをつくれず、母アン・ブーリンの悲劇が彼女のトラウマになっていたのかも。
50歳を過ぎると「あなたは美しい」と言われることに執着しだします。お愛想でも美しいと言われることで、自分自身も美しいと勘違い。政治的判断力に長けた女性なのに、自分の容貌を客観視できていないところも、人間くさくて面白いのです。30歳以上も年下の美男の貴族と恋仲になるけれど、彼が「女王は骸骨みたいだ」と口をすべらせたことで女王は激怒し、処刑台へ送ります。
エリザベス1世
イギリス●1533~1603
目鼻立ちは整ってはいるが“白塗り”が悪目立ち。肖像画の顔は老年になっても老いることなく、どんどん若返らせていく。リアルさよりも政治的プロパガンダとしてのイコン(聖像画)を要求したのだ。
【光】王の正統な血を受け継いだのに、望まれぬ娘として生まれて以来苦労の連続。その経験を生かして人間観察力も磨いた。
【影】結婚をあきらめたのち、臣下や女官の結婚に露骨に嫌悪感を示すようになり、何度も妨害するなどの愚行に出る。
またレディ・ジェーン・グレイも、ヘンリー8世に運命をもてあそばれた1人。9日間だけイギリスの女王になった後、処刑された悲運の女性です。その経緯を簡単に説明すると、彼女はヘンリー8世の妹の孫であり、王位継承順位第4位。権力欲が強いしゅうとの陰謀の駒にされ、女王にかつぎだされます。
苦労人のエリザベスならば、降ってわいた女王の座に警戒心を怠らなかったはずですが、お嬢さま育ちのジェーンはそのまま受け入れ、反勢力派に処刑されることになります。毅然(きぜん)とした態度で処刑人に首を差し出したのは、立派です。享年16歳。次世代へ命をつなぐことなく、一番美しい時期に散った彼女の絵の前で、今なお涙する人が絶えません。
レディ・ジェーン・グレイ
イギリス●1537~1554
フランス人画家、ドラローシュ作。サテンの純白のドレスは身の潔白を表すかのよう。本作は2017年の「怖い絵」展の顔となり、「どうして。」のキャプションとともに話題をさらった。
【光】ラテン語も話せた勉強家だった。改宗すれば処刑を免れたが、それも拒否した意志が強固な人。
【影】若すぎたため(戴冠時15歳、処刑時16歳)、エリザベスのような知略を用いることができなかった。
作家、ドイツ文学者
早稲田大学大学院修士課程修了。美術関係のエッセイを多数執筆。「芸術新潮」「文藝春秋」などで連載を持つ。著書に「怖い絵」シリーズ(角川文庫)ほか、近著は『美貌のひと』(PHP新書)。2017年「怖い絵」展監修。