情報の発信はどこかの誰かを傷つけている
私は、「広報」の仕事をしています。広報とは、「広く報(しら)せる」の文字通り、「新製品が出ます」「新しい取り組みを始めました」「こんな事業を行っています」といった情報を社内外に広め、「選んでいただく」=「ブランドを高める」ための仕事です。
広めるべき情報を峻別し、「攻め」と「守り」のバランスをとりながら「真意を伝えるコミュニケーション」が求められる仕事です。私はこの仕事をとおして、「広めるべき情報」と「出さない情報」を区別する癖をつけてきました。
それでも、ミスすることがあります。
仕事のひとつに、毎週19万人の読者にむけてエグゼクティブコーチが書くコラムの編集発行があります。
東北の震災から2年ほど経ったときのことです。「何十年もかけて、何万本もの桜を植樹する」という、ある地域の活動をテレビで知りました。放射能問題などで土地を離れた人たちがいずれ帰ってくるようにという願いをこめ、地元の人たちを中心に桜を植え続けるという活動でした。その取り組みにつき動かされ、編集後記で触れたのです。
すると、即レスとも言えるスピードで2人の読者の方から返信メールが届きました。 放射能汚染についての私の微妙な書き方が「この地域は使えない土地になった」という印象を与え、風評被害を拡散する、というご指摘でした。
茫然としました。「未来にむけて頑張る人を応援したつもりだった。読んだ人たちは私と同じように共鳴してくれると思っていた。なのに、怒っている人がいる。何が起きたのだろう?」と。
あのとき、私には「編集後記にまで目を通しているのは、ごくごく数名の人たちだろう」という油断が明らかにありました。さらに、「読んでくださった人はみな、この内容に共感してくれるだろう」と独りよがりの思いを抱いていたのだと思います。
この経験をとおして私が痛感したのは次のことです。
・ネットの情報は、いつ、どこで、誰の目にとまるか、想像するのは難しいこと
・発信するときは、正確性や表現の細部にまで神経を研ぎ澄ませる必要があること
・意図しなくても、人を傷つける可能性があること
読売新聞の一面コラム「編集手帳」を長年執筆し、日本記者クラブ賞を受賞している竹内政明論説委員は、著書に「私のコラムは、いつ、何を、どう書いても、知らず知らずにどこかの誰かを傷つけている」と書かれています。大ベテランの専門家でさえ、そう肝に銘じて、日々ペンをとっているのです。
では、誰もがメディア化した今、炎上リスクを減らす手立てとはどのようなものなのでしょうか。