※以下は小林哲夫『神童は大人になってどうなったのか』(太田出版)の第7章、「残念な神童たち」からの抜粋です。
森茉莉から「大蔵美人」呼ばれた人物
神童と呼ばれた女子が、わたしが通っていた小学校の1年先輩にいた。
朝長さつき。1959年生まれ。浦和市立高砂小学校(現、さいたま市立高砂小)のころ、同校始まって以来の天才少女が現れたと言われたのである。それは幼いわたしの耳にも入ってきた。「天才」ということばの意味を初めて知ったのは、朝長の存在によってである。あまりにも頭がよかったので、彼女はちょっとした有名人だった。
高砂小学校の先生は彼女の将来に期待していた。当時、埼玉県内には、成績が優秀な女子ならば、高砂小学校、岸中学校、浦和第一女子高校という「エリートコース」があった。でも、朝長はこのルートには乗らなかった。さらなる「エリートコース」をめざしたからである。それが、当時、首都圏の中学受験で女子にとっては、もっとも難関だった東京教育大学附属中学校だった。いまの筑波大学附属中学校だ。朝長は、難なく合格する。そのまま同大学附属高校に進んだ。
その後、彼女は東京教育大学附属中学校、高校から東京大学法学部に進み、大蔵省に入った。1980年代前半である。エッセイストの森茉莉(森鴎外の長女)から、「大蔵美人」という称号をもらった。神童少女は大蔵省でも頭のよさ、というか、優れた事務処理能力を見せつけた。大蔵省のエリートコースといえばクロトン(※黒田東彦日銀総裁)が歩んだ主税局だが、それ以上に次官に近いのが主計局畑である。朝長は主計局を邁進した。
優秀な官僚には国費留学という税金で外国の大学で学べる機会が提供される。朝長も例外ではなかった。フランスの国立行政学院(ENA)という官僚養成機構で学んでいる。
大蔵美人で切れ者の朝長。27歳のときに見合い結婚をする。大蔵省OBの政治家、近藤鉄雄が紹介したのは、東京大学助教授だった舛添要一である。しかし、3年あまりで離婚する。その後、マルマン創業者の長男、片山龍太郎と再婚した。やがて、財務省をやめて、自民党国会議員となる。
そう、朝長さつきとは、片山さつきのことである。