“共感”という名の自縄自縛

小学校高学年~中学という、最も女子が女子としてのいやらしさと輝きを発揮し始める時期。生まれたばかりで飼いならされていない女性性を、自分でもどうしていいのか分からずに、同級生に、親に、きょうだいに、大人に、見知らぬ他人にぶつける。そんな時期を女子だけのクラスと女子校で過ごした。小学校がいい感じにイカれた進学校で、高学年になると男女別クラスに分けたゴリゴリの受験指導を受け、女子中高へ進んだからだ。美人も、賢い子も、性格のいい子も、男を見る目のある子も、そしてもちろんそうでない子も、いろいろいた。

そこで、数多(あまた)ある女の道を統べるただ一つの摂理を学んだ。女は、どの道を選ぼうとも「自分の道は楽勝」「こっちの水は甘い」「うちの芝生は青い」と発言してはいけない。相手の道を批判してもいけない。「お互い苦労するね、がんばろうね」が最適解だ。“女が嫌う女”は、そういう暗黙の了解を無視するから嫌われる。形だけ「お互い苦労するね~」と眉をハの字にして言いながら、ちゃっかりグループから一抜けする女は“ずるい女”と呼ばれる。共感の枠からはみ出てはいけないという幼稚な感情習慣が、大人になってからも綿々と続いている女性同士の空間に、覚えはないだろうか。そこに、生産的な結論をもたらす議論は存在し得ない。

共感を仲良しの根拠とするコミュニケーションの枷とは共感それ自身であり、SNSで散見されるように他者に自分への共感や承認を請い、人間関係や能力の評価を好悪の感情だけで判断する人は、反作用で自分も共感を安売りして回らねばならない。「男とは」「女とは」がステレオタイプだと分かっていながら、でもそのステレオタイプでうまく予定調和に落とし、八方丸く収めることのできる場面は“億”ほどある。座りのいいシナリオに沿わないシーンを、実のところ、男だろうが女だろうが人はあまり好まず、クラッシュやバグを恐れている。