「働いているからできません」はわがまま――PTAの役員選出や新体制での始動の時期、ネット上には怒りや不満の声があふれます。しかし、実際の保護者会は誰もが押し黙り、手も挙げず、何事もないかのように進んでいきます。こういった現象はなぜ起こるのでしょうか。そして専業主婦とワーママの対立構造は、今後どのように変わっていくべきなのでしょうか。
「自分は自分」と言える大人になるためのプロセス
大人になるって素敵なことだ。漫画やスイーツや化粧品の大人買いもできるし、アーティストのライブチケットが取れなきゃ、クレジットカードにものをいわせてファンクラブにその場で入会、即ファンイベントのチケ取りが可能。校則も人の目も関係ないから、思い付きで「スタイリストさん、やっちゃってください」と好きな色に髪を染めちゃう。既製品に好きなものがなければ、知り合いのデザイナーにちょいと電話してオーダーしちゃえ。気分が腐る日は、とっておきのボトルを開けて飲みながら漫画一気読みちしゃえ。気分がいい日もボトル開けちゃえ。「あー運動しなきゃ」ってなったら、素敵ブランドでウェア一式お買い上げして、まず形から入っちゃえ。仕事さえちゃんと上げれば(上げられれば)、夜中までまとめサイトを見まくったり、Blu-rayを観まくったりしても誰も怒らない。さすがに40歳を越えると(いや30歳を越えたときからだ)翌日の睡眠不足はこたえるけど。
好きなことを好きなだけ、好きなタイミングでできる自分がラクで仕方ない。誰の視線に臆することも、すくむこともない。批判と称賛は紙一重の同じエネルギー。愛されてもディスられても「ありがとう」、無視されるならそれはそれと、いなし方もすみ分け方も体得してきた。大丈夫、私は十分に愛されたい人たちに愛されているし、愛したい人たちを愛している。人は人、自分は自分。粋がるのでも強がるのでもなく本当にそう言えるのは、これまでに十分、オンナノコ(仮分類)として人の顔色や評価をうかがって応える作業をしてきたからだ。
だから、あんな面倒くさい時代に戻ろうと思わない。
“共感”という名の自縄自縛
小学校高学年~中学という、最も女子が女子としてのいやらしさと輝きを発揮し始める時期。生まれたばかりで飼いならされていない女性性を、自分でもどうしていいのか分からずに、同級生に、親に、きょうだいに、大人に、見知らぬ他人にぶつける。そんな時期を女子だけのクラスと女子校で過ごした。小学校がいい感じにイカれた進学校で、高学年になると男女別クラスに分けたゴリゴリの受験指導を受け、女子中高へ進んだからだ。美人も、賢い子も、性格のいい子も、男を見る目のある子も、そしてもちろんそうでない子も、いろいろいた。
そこで、数多(あまた)ある女の道を統べるただ一つの摂理を学んだ。女は、どの道を選ぼうとも「自分の道は楽勝」「こっちの水は甘い」「うちの芝生は青い」と発言してはいけない。相手の道を批判してもいけない。「お互い苦労するね、がんばろうね」が最適解だ。“女が嫌う女”は、そういう暗黙の了解を無視するから嫌われる。形だけ「お互い苦労するね~」と眉をハの字にして言いながら、ちゃっかりグループから一抜けする女は“ずるい女”と呼ばれる。共感の枠からはみ出てはいけないという幼稚な感情習慣が、大人になってからも綿々と続いている女性同士の空間に、覚えはないだろうか。そこに、生産的な結論をもたらす議論は存在し得ない。
共感を仲良しの根拠とするコミュニケーションの枷とは共感それ自身であり、SNSで散見されるように他者に自分への共感や承認を請い、人間関係や能力の評価を好悪の感情だけで判断する人は、反作用で自分も共感を安売りして回らねばならない。「男とは」「女とは」がステレオタイプだと分かっていながら、でもそのステレオタイプでうまく予定調和に落とし、八方丸く収めることのできる場面は“億”ほどある。座りのいいシナリオに沿わないシーンを、実のところ、男だろうが女だろうが人はあまり好まず、クラッシュやバグを恐れている。
「専業主婦 vs ワーママ」がリアルの世界では表立たない理由
そんな日本の女性が義務教育時代に叩き込まれた「共感の予定調和」が限界に来ているのだろう……。そう思ったのは、ワーキングマザーに向けた原稿を多く依頼されるようになった頃からだ。ワーママが専業主婦に抱く、もはや嫌悪とも呼べる感情。専業主婦がワーママに抱く反感。リリースした記事がきっかけとなって、SNSでの反応がさまざまに噴き出す。
子供の学校でPTA役員をしたときに見聞きした、「『働いているからPTAはできません』って、お母さんが働いているかどうかは“個人的な事情”でしょう。それをどうして働いていないお母さんが尻拭いをしなければならないの。最近の働くお母さんたちはワーママだとか言って、結局わがまま」との見方や、「現状の教育現場が母親に期待している内容が、どう考えても、“女性も働くのが当然の現代”仕様にアップデートされていない」との指摘。毎年PTA役員選出でゴタゴタする冬と、一旦決定してから新役員体制で始動する春に必ず出てくる「PTAとは」関連のコンテンツや怒り・不満のツイート。ネット上ではこんなに「専業主婦 vs ワーママ」の需要があるのに、実際の保護者会ではひたすら誰もが押し黙り、手も挙げず、何事もないかのように取り澄ます。事前に井戸端会議やSNSで散々欠席裁判が行われているからだ。
みんなもう十分おばさんのくせに、おばさんになってまで、まだ義務教育時代の呪いに囚(とら)われている。もう他人の視線に鈍感になって自由に好き勝手なことしているくせに、女同士のことになったらその時だけ、あの子は別グループ、なんて、まだ「共感(できる私たちだけが)仲良し(よねー)ごっこ」している。スクールカーストだかなんだか知らないが、義務教育の根は深い。
匿名サイトで投げつけられた本音
先日、野田聖子さんとサイボウズ青野社長の、子育て政策に関する対談記事を書かせていただいたところ、ネットで大きな反響を得た。
反響のあまり2ちゃんねるやまとめサイトでも取り上げられ、スレッドやコメント欄の伸びがすごい。匿名サイトのいいところは、男性も女性も、補正を加えない本当の守備位置から外聞を気にせず粗い本音を投げつけてくるところだ。性別の見えにくい発言、そこに価値がある。その中にあった1つのコメントが、私の印象に残った。
男に(文句)言うの?
男に(詰め寄って)解決してもらおうって魂胆で何が「女性が輝く社会」なのか?
何が「女性は強くなった」のか?
最終的に1つの意見にまとまらないにしても、
何が問題かのおおよそのコンセンサスは見えてくるでしょうよ。
思想や生き方が違う女性達が、女性だけのコミュニティでガチで議論し、
感情的になり、罵り合うようになれば、
野田氏の提言も、大抵の日本の社会問題も解決すると思います。
それをやらず、「多様性」なんて綺麗事でまとめても、
多様性維持の労力を男性までもが払っている。
よしましょうやそんなの。”
「多様性維持の労力を“男性までもが払っている”」という点には、異論を唱えたい。男性だって多様性の中にいて、決して“ザ・男”なんて想像上の動物1種類しかいないわけではないのだから、男性もまた「多様性」という議論の当事者だ。だが、「なんで自分たちの生き方を女同士で話し合わないの」「思想や生き方が違う女性たちがガチで議論し、感情的になり、罵り合うようになれば」「『多様性』なんて綺麗事でまとめずに」これはその通りだと思った。
異なる「女の道」を統べるための通過儀礼
ダイバーシティでごまかすなとの声に、そうだ日本の女の中には衝突が足りていないと思った。ダイバーシティとは、その語が社会的に認知されるに至った背景からして、差別や諍いや摩擦の歴史を経たところにある。日本の女は「共感仲良し」の習慣に囚(とら)われて、自分たちの中で陰口を散々たたいても、真正面の衝突を避けてきた。それは、もしかすると思想史的には“対男性の弱者連合という戦線を張ることで、連帯する必要があったから”……ということなのかもしれないけれど。
でもそろそろ、日本の女が(引き金が国連勧告だろうが政治であろうが)本気になって“女性(がまともに)活躍(できる仕組み)”を志し、「男性主導の枠組みの隙間に身を置かせてもらうのではない人生を」と思うのなら、一度、女同士の壮絶なキャットファイトを起こして毒出しをするべきなのかもしれない。「甘えてんじゃないわよ!」「粋がってんじゃないわよ!」「あれこれ理由を並べて、自己正当化してんじゃないわよ!」「ははっ、あんたもね!」と、お互いに罵り合うときが来ているのかもしれない。
ゴールデンウィーク明け、私の経験ではそろそろ各地の学校でPTA総会が開かれる頃だ。芽吹く季節とは、内包されたエネルギーが爆発する季節でもある。不穏バッチこい、だ。
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。