1990年代、IBMの経営転換成功の陰には、全世界的なダイバーシティ導入がありました。IBMの経験から学ぶこととは? 約10年にわたり、IBMのダイバーシティをけん引してきた、日本アイ・ビー・エム株式会社の人事 ダイバーシティー企画担当、梅田恵部長の話です。
※この内容は2016年3月4日に開催された「日本企業にダイバーシティ経営は必要か?」(主催:株式会社チェンジウェーブ)でのパネルディスカッションを元に構成したものです。
「リスクや危機に動じない」企業へ。IBMのダイバーシティ
日本アイ・ビー・エム株式会社(以下IBM)はダイバーシティの重要性に着目したのが世界的にも早く、最初の女性活躍推進プロジェクトは1998年にスタートしています。私も2008年からダイバーシティを担当していますが、今回はそうしたIBMの経験をご紹介します。
さきほどの入山章栄先生の基調講演に、「ダイバーシティにはタスク型とデモグラフィー型の2種類がある」という話がありました。タスク型は経験や価値観など内面の多様性、デモグラフィー型は性別や国籍、年齢などの多様性ですね。それでいうとIBMは、最初にタスク型の会社として発展し、次にデモグラフィー型になり大失敗し、またタスク型に戻った会社だと言えます。
IBMの本国での創立は今から105年前ですが、当時はまさに名もないベンチャー企業でしたから、なかなか社員を集めることができませんでした。そこで、優秀だけれど女性や黒人というだけで仕事に就けない人を集めてきたのです。教育が足りないなら会社が教育をし、生活のベースが整っていないなら会社が福利厚生をすることで社員の定着を図り、発展してきました。
そして1960年から1970年にかけてコンピューター産業が爆発的に発展し、IBMが強くなるにつれ、デモグラフィー型になっていったのです。これは会社が大きく成長する時には、どうしても避けられないことかもしれません。
なぜなら企業の成長期には、「右向け右」と言えば即座に右を向くような人が揃っているほうが、機動力があって仕事がしやすいからです。しかしIBMはその時代が長く続きすぎて、市場が変化する兆しに気付きませんでした。変化とは、タスク型の競合他社の台頭、コンピューターのダウンサイジングという波です。結果、深刻な経営危機に陥ったのが1990年前半です。
当時IBMは氷河期に滅びた恐竜に例えられました。そこで初めて生え抜きではないルイス・ガースナーという経営者を外から呼んだのです。彼は『巨象も踊る』という本のなかで、IBMをどうやって改革したか、生き残りの戦略は何だったかを書いていますが、その1つがいわゆる「ダイバーシティ」だったのです。彼は大きな構造改革行い、デモグラフィーを変え、企業文化と風土を変え、ハードウェア中心の会社からソフトサービスの会社に変えました。
IBMがダイバーシティに力を入れている理由は、「リスクや危機に柔軟に対応できる、強い体質になるため」なのです。