たった5日間で10軒の家が被害に遭う
その後、周辺地域から武装して集まった討伐隊員が住民避難後の開拓地に続々と集まり、熊狩り本部が六線沢の開拓地に隣接する農家、大川與三吉家に設けられた。
12月12日には明景家で遺体を囮にした7人の射手による待ち伏せが決行されたが、出現したヒグマには発砲に至る前に上手くかわされた。ヒグマは同日夜に無人の太田家に3度目の侵入を行い、雑穀類を食い荒らし、夜具・衣類などをズタズタに食いちぎったという。
12月13日には、さらに8軒の農家(無人)がヒグマによる侵入を受け、ニシン漬け、鶏舎のニワトリ、雑穀類などが食害された。12月9日~13日のわずか5日間で、開拓部落15軒中、六線沢の右岸に建つ10軒すべてが侵入被害を受けた形となった。
13日の夜には、熊狩り本部前の三毛別川本流との合流点付近で村田銃など十数丁がヒグマに向かって発砲されたが、再び逃走された。しかも不発の銃も多かったという。
翌朝より足跡と血痕の追跡が行われ、最終的には、集団より先行してヒグマに接近することに成功した鬼鹿村(現在の小平町の一部)の猟師、山本兵吉が胸部と頭部に計2発発砲して、ついに射殺した。捕獲された加害個体は、体重340キログラム、前掌幅20センチメートルのオスと伝えられている(木村 2015)。
現代のクマにも通じる餌付けの危険性
この事件は、冬眠しない凶暴な「穴もたず」のヒグマによる特殊な事件として語られることがあるが、私はそうは考えていない。大正時代は近年よりも積雪が多かったかもしれないが、少なくとも近年は、ヒグマのオス成獣の一部が12月上旬に積雪がある状況下で活動していること自体は、特段異常事態ではない。
むしろこの事件で注目すべきは、一軒の開拓農家が事件前月の11月に、軒下のトウキビをくり返し食害されていた点である。
人家付近の屋外で栄養価の高い食物に餌付いてしまったヒグマが、「執着心のスイッチが入った」結果として行動をエスカレートさせ、建物や倉庫内に侵入するようになることは、現代のヒグマでもときどき確認されている行動である。
つまり、最初の12月9日の太田家の襲撃については、最初から人間の捕食を目的としていたわけではなく、トウキビなどを狙って太田家の中に侵入したヒグマが、狭い屋内で遭遇した2人を当初は偶発的に攻撃して殺害した可能性が考えられる。
そして血のニオイや味などに反応して、途中からもともとの肉食動物としての性質が覚醒して捕食行動に移行した結果、太田マユは連れ去られて山林内でゆっくり食害されたのだろう。

