父の死で得た文学を楽しむ自由
継母の楽しみは、物語にも及んだ。新聞を持って「錦見」という煮売り屋へ行き、年老いたお内儀に『嫁ケ淵』『里見八犬伝』などの続き物を、ときには節をつけて読んで聞かせた。「いつでも、その日の新聞の読み賃として、売り物の肴を丼に入れてくれることもあり、ときには、銭をくれることもあった」そして「帰りの足は軽かった」。娘が原稿料で身を立てるより前に、この家では、物語を語ることが楽しみと報酬に結びついていたのである。
継母が物語を読んで聞かせていたころ、千代はもう、書く側にいた。
千代が女学校に入ったのは、父の死の3年前、1910年である。学校の記録によれば、1年目の作文が早くも校友会誌に載り、成績や精勤で表彰される優等生でもあった。書くことは、父の存命中に始まっていたのである。
やがて、その優等生が、友人と回覧雑誌を作っていたことを教員に見つかって注意されると、今度は学校の外の『女子文壇』に変名で投稿した。父の死がもたらしたのは、厳しい父の目を恐れずに文学を楽しめる自由だった。
月給8円の使い道
女学校を出た千代は、祖母の口利きで代用教員になる。月給は8円。電車には乗らず、約4キロの道を歩いて通った。初めての給料袋を手つかずのまま差し出すと、継母は「ありゃ、こんとに、みな、わしが貰うてもええかいの」と言った。その目に涙が浮かんだ。美談になりそうな場面だが、千代は美談にしない。
「私は母に月給を渡すことが嬉しいから、それをしただけのことであった」
やがて継母に渡す額は、ほかの使い道ができるにつれて減っていく。幼い頃から父に肌の色をけなされていた千代は、教員時代に化粧に目覚め、月給8円のうち約1円50銭から60銭を化粧代に使うようになった。自分の稼ぎを、自分の顔に使う。この家に来た自由は、抽象的な理念ではなく、給料袋の中身の配分の変化としてあらわれた。
晩年、父の放蕩について書き進めるなかで、千代は自分との共通点に気づき、こう記している。
「ここまで書いて来て、おや、この父のことは凡て、この私のことではなかったかと、思わず私はぎょっとした。私も賭事が好きで、そして、若い頃から自分のしたいと思うことは何でもした」
裸足で学校へ通わされた娘は、父を恨むだけの人にも、父を美化するだけの人にもならなかった。恐れた相手との共通点を、目をそらさずに書くようになった。「自由奔放」という四文字ではとても説明しきれない人である。
【参考文献】
刑部芳則『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』(NHK出版新書)
宇野千代『生きて行く私』(角川文庫)
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