父の死は「何となく嬉しかった」
父が亡くなったのは1913年2月8日、57歳。
「父親が死んだ。私は涙を滝のように流したがやはり何となく嬉しかった。私はもうどんなことでも出来る」
涙と解放感。千代は後年、随筆にその時の心境をどちらも隠さず書き残している。もっとも、家の空気はすぐには変わらなかった。
「父が死んで、時計の間の父の寝床は片付けられた。父がいない。私も子供たちも、なかなかこのことが呑み込めなかった」
そうした中、変化は思いがけない形でやってくる。
ある日、飼っていたカナリヤがくちばしをくっつけているのを、子どもの一人が見つけて笑った。小さな笑いだった。だが、誰もとがめる者がいないと分かると「今度は大声を上げて、あはははは、あはははは、と続けて笑い転げるのであった」
父の死を笑ったのではない。きっかけは鳥の仕草にすぎない。普通の家なら何でもないその笑い声が、この家では事件だった。
家の中で笑えるようになっても、自由が完全に戻ったわけではない。たとえば、父に禁じられていた芸人見物である。近所に芸人が来たとき、子どもたちは互いに「うちじゃあ、見には行かんのじゃ」と言い合って、すぐには出て行かなかった。最初に飛び出したのは長男の薫で、ほかの子どもたちはそれに続いた。命令した本人が死んでも、習慣は命令より長生きする。
継母の意外な趣味
父の死後、変わったのは子どもたちだけではない。継母は千代を浮かれ節(浪花節)を聴きに連れて行くようになり、家事をしながら自分でも歌った。千代はこう書いている。
「その唄声もまた、この家の中の解放を意味していたのである。私もまた一緒に、その唄声に唱和していた記憶がある」
自伝によれば、継母は義済堂という糸とり工場へ働きに出た。暗いうちに起き、前夜の冷たいご飯を弁当箱に詰め、子どもたちを寝かせたまま出かけた。のちに、千代が学費のために苦労をかけたと詫びると、彼女の答えは意外なものだった。
「何の、お前の学校のためかいの。わしゃあ、唄を歌うのが好きでのう。いつでも糸をとりながら、声を上げて唄を歌うたもんじゃが、みんなが、わしの声に聞き惚れてのう、それが自慢で、糸とりに行ったんでよ」
少なくとも千代は、継母の働く姿を、娘のための犠牲としてだけは描かなかった。彼女の言葉を、娘への気休めとも受け取らなかった。「しん底、自分の唄が自慢で、それで義済堂へ通ったのに違いない、と、いまでも私は信じている」

