「これは自己投資だ」で20万超の支出を正当化

試着室から出て姿見の前に立つと、肩のラインが自然に落ち、胸まわりにも余計なシワが出ない。

鏡の中の自分を見つめて、真中は思った。

今までの自分は、スーツに着られていたのだ。

上質な生地。丁寧な接客。

まるで、自分までワンランク上の人間になったような感覚があった。

いつの間にか購入は決まっていた。

吊られたビジネススーツ
写真=iStock.com/Lucas Pokotylo
※写真はイメージです

ところが、スーツを新しくすると今度は他が気になってくる。

名刺入れ、鞄、靴。

10万円近いスーツに、今までの革靴ではバランスが悪い。

1つ替えると、次が気になる。

店を出るころには、買い物の合計額は20万円を超えていた。

たった1日で、貯金の約2割が消えたことになる。

一瞬だけ胸の奥がチクリとした。

それでも、不思議と罪悪感はなかった。

これは自分のための贅沢ではない。仕事のために必要なものだ。取引先の前に立つ人間が、身だしなみを整えるのは当然のことだ。

役職手当もつく。ボーナスも期待できる。年収だって、これから上がる予定だ。

「これから働いて稼げばいい。これは自己投資だ」

そう考えると、罪悪感は一瞬でなくなった。

「20万円くらいすぐ取り返せる」

翌週、真中は新調したスーツに、新しい革靴と鞄で出社した。

身につけるものが変わると、気分まで変わる。

すれ違う人たちが、いつもより少しだけ自分を見ているような気さえした。

半ば諦めと惰性で仕事をしていた以前の日々が、昔のことのように感じられる。

デスクに着くと、同僚の新田紬がすぐに変化に気づいた。

「スーツ変えました? なんかシュッとしてる」

靴も鞄も新しいことまで見抜かれた。

「自己投資みたいなもんだよ」

真中はそう答えた。

そして翌月、課長代理になって初めての給与明細が届く。

基本給は上がり、役職手当もついた。残業代がつかなくなったことを差し引いても、額面は昇進前より数万円増えている。

手取りも確実に上がっていた。

身だしなみに使った20万円も、すぐに取り返せる。

そう思うと、会社員としての未来が少しだけ明るく感じられた。