「これは自己投資だ」で20万超の支出を正当化
試着室から出て姿見の前に立つと、肩のラインが自然に落ち、胸まわりにも余計なシワが出ない。
鏡の中の自分を見つめて、真中は思った。
今までの自分は、スーツに着られていたのだ。
上質な生地。丁寧な接客。
まるで、自分までワンランク上の人間になったような感覚があった。
いつの間にか購入は決まっていた。
ところが、スーツを新しくすると今度は他が気になってくる。
名刺入れ、鞄、靴。
10万円近いスーツに、今までの革靴ではバランスが悪い。
1つ替えると、次が気になる。
店を出るころには、買い物の合計額は20万円を超えていた。
たった1日で、貯金の約2割が消えたことになる。
一瞬だけ胸の奥がチクリとした。
それでも、不思議と罪悪感はなかった。
これは自分のための贅沢ではない。仕事のために必要なものだ。取引先の前に立つ人間が、身だしなみを整えるのは当然のことだ。
役職手当もつく。ボーナスも期待できる。年収だって、これから上がる予定だ。
「これから働いて稼げばいい。これは自己投資だ」
そう考えると、罪悪感は一瞬でなくなった。
「20万円くらいすぐ取り返せる」
翌週、真中は新調したスーツに、新しい革靴と鞄で出社した。
身につけるものが変わると、気分まで変わる。
すれ違う人たちが、いつもより少しだけ自分を見ているような気さえした。
半ば諦めと惰性で仕事をしていた以前の日々が、昔のことのように感じられる。
デスクに着くと、同僚の新田紬がすぐに変化に気づいた。
「スーツ変えました? なんかシュッとしてる」
靴も鞄も新しいことまで見抜かれた。
「自己投資みたいなもんだよ」
真中はそう答えた。
そして翌月、課長代理になって初めての給与明細が届く。
基本給は上がり、役職手当もついた。残業代がつかなくなったことを差し引いても、額面は昇進前より数万円増えている。
手取りも確実に上がっていた。
身だしなみに使った20万円も、すぐに取り返せる。
そう思うと、会社員としての未来が少しだけ明るく感じられた。

