弟の家臣だったが、信長に鞍替え
ところが、弘治元(1555)年に佐久間信盛が織田秀俊(信長の異母兄弟)を守山城主に据えるように信長に進言した記述が見える(『信長公記』)。当時はまだ信長・信勝兄弟は不仲の状態にあったが、佐久間信盛は信勝の麾下を離れ、信長の下に参じたのだろう。信盛は佐久間家の嫡流ではなかったようだが、早い時期に信長に付いたことで評価されたと思われる。
弘治2年に信長が信勝軍と戦った時、信長軍は700弱、柴田勝家が率いる信勝軍は1000、林秀貞の弟が率いる軍(信勝側)が700だったという。軍勢の数では信勝側に劣っており、筆頭家老の林秀貞も信勝側に味方する。そうした中、動員能力の高く、信勝側から信長側に転じた佐久間家は、極めて重要な存在であったに違いない。だから、その後も信盛は評定の上座を占めるほど出世したのではないか。
リストラ後の佐久間家は…
佐久間信盛は高野山に追放された翌天正9年7月に没した。その子・佐久間信栄は父とともに高野山に追放され、不干斎定栄と名乗ったが、天正10(1582)年1月に赦免された。その5カ月後、本能寺の変が起こり、信栄は信長の次男・織田信雄の家臣となった。
天正12(1584)年の小牧・長久手の合戦の中では、信雄・徳川家康連合軍の戦略上の重要拠点である蟹江城(愛知県海部郡蟹江町蟹江本町)に置かれた。しかし、伊勢の諸城が秀吉の猛攻に遭うと、信雄の命により伊勢萱生(三重県四日市市萱生)周辺の砦の建築に従事。ところが、信栄の留守中、蟹江城を守っていた前田与十郎(利家の本家筋)が、従兄弟の滝川一益に懐柔され、蟹江城が乗っ取られてしまう。
息子は徳川秀忠の話し相手になる
信栄は帰る場を失い、行方をくらました。3年後に信栄は赦免され、秀吉に仕えるが、「身分は秀吉御咄の衆。年齢的には三十歳前後の若さだが、すでに隠居扱いだったらしい」(『織田信長家臣人名辞典』)。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では、信栄の養子で実弟・佐久間信実が徳川家康に従い、上総茨葉に1000石を与えられた。子孫は加増されて1300石の旗本となった。
その後、信栄は二代将軍・徳川秀忠の御咄の衆となった。秀忠は虚弱なイメージがあるが、実際は筋肉質で剛毛の武将で、古い時代の武将の話を好んで聞いたという。これにより、信栄は養子・信実とは別に、武蔵国児玉郡・横見郡のうちに3000石を与えられた(合戦に参陣するより、将軍の話し相手の方が3倍も高禄なのだ。人生、やっていられない)。