公開されたリストラ理由
また、11条目に「一、先年、朝倉義景が敗走のおり、戦機の見通しが悪いと叱ったところ、恐縮もせず、挙げ句に自慢をいって、その場の雰囲気をぶちこわした。あの時、信長は立場がなかった。あれほどの広言をしておきながら、長々と当地に滞陣しており、卑怯な行為は前代未聞である」とある。
これは非常に有名な逸話で、元亀4(1573)年に信長が朝倉家を滅ぼした際、近江で敗走する朝倉軍を信長が追い詰めようと急ぎ進軍したが、織田家臣団はその見込みが甘く、信長に遅れを取った。それを詰問すると、佐久間信盛が唯一人「そうはおっしゃいましても、われわれほどの家臣はお持ちになれますまい」と反論したのだ。おそらく最上位の重臣として同僚たちをかばったのだろうが、無能なクセに反論だけはするKY(空気が読めない)野郎と評価されてしまっている。
信長は「能力主義」「合理主義」に基づいて人材を登用したというイメージが強い。ではなぜ、無能に思える佐久間信盛が重臣の最上位に位置することができたのだろうか。
「いいとこのボンボン」だった
簡単に言ってしまうと、佐久間信盛はいいとこのボンボンだったから重用されたのだ。『新修 名古屋市史2』では、室町時代における名古屋市内の有力武士として、①那古野の今川氏、②熱田の千秋氏、③御器所の佐久間氏の三家をあげている。佐久間家は鎌倉幕府の御家人・和田義盛の子孫と称し、鎌倉時代にはすでに尾張に根付いていた。佐久間家は独自に家臣団を抱え、尾張国愛知郡でも屈指の国人領主だったのだ。
佐久間家の拠点・愛知郡御器所村(名古屋市昭和区御器所)は、信長の父・織田信秀が晩年を過ごした古渡城の東にほぼ2km、末盛城の南西にほぼ4kmに位置する。佐久間家が信秀と関係を持ったのは、信秀が古渡城に移り住んだ天文15(1546)年頃であろう。信秀は守護代・清須織田家の家臣だったので、佐久間家は守護代・清須織田家の命で信秀の与力になっていたというのが最も無難なところだと思われる。
信秀の死後、那古野城は信長、末盛城は信長の弟・信勝に譲られ、佐久間一族は信勝付きとなった。『信長公記』では信秀の葬儀に「御舎弟勘十郎(信勝)公、家臣柴田権六(勝家)・佐久間大学(盛重)・佐久間次右衛門・長谷川・山田以下御供なり」との記述がある。