佐久間・林・安藤が追放される
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)では織田信長(小栗旬)による重臣たちの追放が描かれる。リストラ対象となるのは、古参の家臣、佐久間信盛(菅原大吉)と林秀貞(諏訪太朗)。さらに、安藤守就(田中哲司)、丹羽氏勝が〔史実では天正8(1580)年に〕信長によって追放されてしまう。安藤は小一郎(仲野太賀)の妻・慶(吉岡里帆)の実父という想定なので、それを絡めた展開になるかもしれない(史実では小一郎の正室の出自は不明)。
佐久間信盛を追放するにあたって、信長は19カ条におよぶ折檻状を突きつけている。『信長公記』に記述があるので、私信というより、今でいう「公開処刑」である。信長は意外にも世評を気にする人物で、足利義昭に対する17カ条の異見書も公家や僧侶の日記・軍記物などにその内容を記した「写し」が複数残されており、自分の正統性を広く知らしめていたらしい。信盛に対しても「オレが気まぐれに追放したんじゃない。あいつが悪いんだ」という理由を具体的に19条も羅列したのだ(イヤな上司だ)。
さて、信盛以外に追放された3人の共通点は、かなりの高齢者だったことだ。安藤守就(1503年生まれ)は77歳、林秀貞(1513年生まれ)は67歳、丹羽氏勝(1523年生まれ)は57歳。佐久間信盛(1527年生まれ)はやや若くて53歳だった。追放の要因には諸説あるが、佐久間信盛の追放を機に、あまり使えないお年寄りを退職させたというのが実相ではないか。
ちなみに、4人以外の高齢者としては明智光秀がいる。光秀の生年には諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『当代記』で光秀の享年は「歳六十七」(数え年)との記述があり、逆算すると1516年生まれで1580年時点では満66歳となる。光秀はこのときリストラされず、信長にこき使われている(=重宝されている)が、身の危険を感じても不思議ではないだろう。
信盛は無能なのになぜ出世できた?
佐久間信盛は天正4(1576)年から石山本願寺攻めの総大将を命じられ、7カ国(尾張、三河、近江、大和、河内、和泉、紀伊)の与力を付けられたが、攻防は遅々として進まず、結局、天正8年に信長が天皇を動かして和睦に持ち込んだ。
信長は軍勢の多い方が合戦に勝つという合理的な考えの持ち主だったようで、当然、大軍を預けて成果を出せない佐久間に失望したらしい。先述の19カ条の折檻状の1条目に+「一、佐久間信盛・信栄父子、五年間、天王寺に在城したが、その間、格別の功積もなかった。これは世間で不審に思われても仕方がない。信長も同感であり、弁護する余地もない」(『現代語訳 信長公記』)と記している。
公開されたリストラ理由
また、11条目に「一、先年、朝倉義景が敗走のおり、戦機の見通しが悪いと叱ったところ、恐縮もせず、挙げ句に自慢をいって、その場の雰囲気をぶちこわした。あの時、信長は立場がなかった。あれほどの広言をしておきながら、長々と当地に滞陣しており、卑怯な行為は前代未聞である」とある。
これは非常に有名な逸話で、元亀4(1573)年に信長が朝倉家を滅ぼした際、近江で敗走する朝倉軍を信長が追い詰めようと急ぎ進軍したが、織田家臣団はその見込みが甘く、信長に遅れを取った。それを詰問すると、佐久間信盛が唯一人「そうはおっしゃいましても、われわれほどの家臣はお持ちになれますまい」と反論したのだ。おそらく最上位の重臣として同僚たちをかばったのだろうが、無能なクセに反論だけはするKY(空気が読めない)野郎と評価されてしまっている。
信長は「能力主義」「合理主義」に基づいて人材を登用したというイメージが強い。ではなぜ、無能に思える佐久間信盛が重臣の最上位に位置することができたのだろうか。
「いいとこのボンボン」だった
簡単に言ってしまうと、佐久間信盛はいいとこのボンボンだったから重用されたのだ。『新修 名古屋市史2』では、室町時代における名古屋市内の有力武士として、①那古野の今川氏、②熱田の千秋氏、③御器所の佐久間氏の三家をあげている。佐久間家は鎌倉幕府の御家人・和田義盛の子孫と称し、鎌倉時代にはすでに尾張に根付いていた。佐久間家は独自に家臣団を抱え、尾張国愛知郡でも屈指の国人領主だったのだ。
佐久間家の拠点・愛知郡御器所村(名古屋市昭和区御器所)は、信長の父・織田信秀が晩年を過ごした古渡城の東にほぼ2km、末盛城の南西にほぼ4kmに位置する。佐久間家が信秀と関係を持ったのは、信秀が古渡城に移り住んだ天文15(1546)年頃であろう。信秀は守護代・清須織田家の家臣だったので、佐久間家は守護代・清須織田家の命で信秀の与力になっていたというのが最も無難なところだと思われる。
信秀の死後、那古野城は信長、末盛城は信長の弟・信勝に譲られ、佐久間一族は信勝付きとなった。『信長公記』では信秀の葬儀に「御舎弟勘十郎(信勝)公、家臣柴田権六(勝家)・佐久間大学(盛重)・佐久間次右衛門・長谷川・山田以下御供なり」との記述がある。
弟の家臣だったが、信長に鞍替え
ところが、弘治元(1555)年に佐久間信盛が織田秀俊(信長の異母兄弟)を守山城主に据えるように信長に進言した記述が見える(『信長公記』)。当時はまだ信長・信勝兄弟は不仲の状態にあったが、佐久間信盛は信勝の麾下を離れ、信長の下に参じたのだろう。信盛は佐久間家の嫡流ではなかったようだが、早い時期に信長に付いたことで評価されたと思われる。
弘治2年に信長が信勝軍と戦った時、信長軍は700弱、柴田勝家が率いる信勝軍は1000、林秀貞の弟が率いる軍(信勝側)が700だったという。軍勢の数では信勝側に劣っており、筆頭家老の林秀貞も信勝側に味方する。そうした中、動員能力の高く、信勝側から信長側に転じた佐久間家は、極めて重要な存在であったに違いない。だから、その後も信盛は評定の上座を占めるほど出世したのではないか。
リストラ後の佐久間家は…
佐久間信盛は高野山に追放された翌天正9年7月に没した。その子・佐久間信栄は父とともに高野山に追放され、不干斎定栄と名乗ったが、天正10(1582)年1月に赦免された。その5カ月後、本能寺の変が起こり、信栄は信長の次男・織田信雄の家臣となった。
天正12(1584)年の小牧・長久手の合戦の中では、信雄・徳川家康連合軍の戦略上の重要拠点である蟹江城(愛知県海部郡蟹江町蟹江本町)に置かれた。しかし、伊勢の諸城が秀吉の猛攻に遭うと、信雄の命により伊勢萱生(三重県四日市市萱生)周辺の砦の建築に従事。ところが、信栄の留守中、蟹江城を守っていた前田与十郎(利家の本家筋)が、従兄弟の滝川一益に懐柔され、蟹江城が乗っ取られてしまう。
息子は徳川秀忠の話し相手になる
信栄は帰る場を失い、行方をくらました。3年後に信栄は赦免され、秀吉に仕えるが、「身分は秀吉御咄の衆。年齢的には三十歳前後の若さだが、すでに隠居扱いだったらしい」(『織田信長家臣人名辞典』)。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では、信栄の養子で実弟・佐久間信実が徳川家康に従い、上総茨葉に1000石を与えられた。子孫は加増されて1300石の旗本となった。
その後、信栄は二代将軍・徳川秀忠の御咄の衆となった。秀忠は虚弱なイメージがあるが、実際は筋肉質で剛毛の武将で、古い時代の武将の話を好んで聞いたという。これにより、信栄は養子・信実とは別に、武蔵国児玉郡・横見郡のうちに3000石を与えられた(合戦に参陣するより、将軍の話し相手の方が3倍も高禄なのだ。人生、やっていられない)。
現代の出世競争にも似た顛末
信栄は2人の養子を迎え、佐久間信勝に2000石、佐久間信重に1000石を譲った。信勝は柴田勝重(柴田勝家の養孫)の次男で、嗣子がなく廃絶となった。信重は、信盛の弟・佐久間信直の次男で、子孫は800石を領する旗本となった。
一方、残り3人の子孫だが、もっとも出世したのは丹羽氏勝の子孫で、織田信雄に仕えた後、徳川家の家臣となり、江戸時代には大名として存続した(安藤守就・林秀貞には「自称」子孫がいるがかなり怪しい)。結果的に断絶してしまった豊臣家よりもラッキーな家運だった。
それは現代の企業内派閥抗争や人生の流転に似ているのかも知れない。主流派にいたと思っていたら更迭されたり、窓際から大抜擢されたり、再就職に成功するケースもあれば、退職後に熟年離婚を告げられたりする。おじさんたちの意外なしぶとさは、今も昔も変わらないものなのだ。