明治政府が認めなかった在位69年の女帝

従来の見方では、こうした女帝は、男性の皇位継承者がいないときの「中継ぎ」とされてきた。戦後の歴史学の世界で権威と目された井上光貞は、「古代の女帝」という論文において、女帝とは「いわば仮に即位したもの」と述べていた。辞書にある女帝の項目を見ても、女帝はあくまで中継ぎとされている。

しかし、どうだろうか。中継ぎにしては、古代の女帝の数はあまりに多すぎる。

中継ぎなら、さっさと男性の天皇に交替してもいいはずだが、推古天皇などあしかけ36年間も在位しており、孝謙・称徳天皇も、重祚したこともあり、在位期間はあしかけ15年に及ぶ。

実は、さらに時代を遡ると、より長く在位した女帝がいた。それが14代の仲哀天皇の皇后だった神功皇后である。現在では、神功皇后は天皇の政務を代行する摂政とされ、その在位期間は69年とされる。

大日本帝国政府発行、改造紙幣(神功皇后札)1円(写真=Mr Coins/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ただ、大正15年に皇統譜令が定められるまで、神功皇后は15代の天皇とされていた。万世一系を強調し、皇位を男性に限定した明治以降の政府は、そんなに長く在位した女帝を認めたくなかったのだ。

母と娘の間で行われた皇位継承

女帝が長く在位したということは、それだけ為政者として多くの仕事をなしとげたことを意味する。推古天皇だと、仏教の興隆や遣隋使の派遣、国史(『日本書紀』)の編纂へんさんなどを行っている。持統天皇も、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうを制定し、藤原京の造営をなしとげた上、外交面では新羅しらぎ朝貢ちょうこうさせている。

どの女帝も、同時代の男性の天皇と比べて、遜色そんしょくない働きをしている。孝謙・称徳天皇などは、橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱を鎮圧しているし、不和となった淳仁天皇から皇位を奪った上で天皇に復帰している。戦闘であろうと、政争であろうと、女帝たちはそれに積極的にかかわったのだ。

現代における女性天皇、女系天皇の問題に深くかかわってくるのが元明天皇から元正天皇への皇位の継承である。元明天皇は元正天皇の母親であり、母と娘のあいだで皇位の継承が行われた。ということは、女系で継承されたことになる。

ただ、元明天皇は天智天皇の第4皇女で、天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子の正妃だった。元正天皇はその間に生まれた皇女であり、父親も皇族であった。その点では、男系での継承であったとも言える。