よって、義経の検非違使任官や五位尉昇叙は、現実には頼朝の許可を得ていたと結論づけるのが穏当であろう。検非違使任官について弁解している点で、腰越状の信憑性には疑問符をつけざるを得ない。
『吾妻鏡』に残る偽作の痕跡
第三に、腰越状作成に至る経緯が諸史料によって異なる点である。『平家物語』諸本の中で最も古い状態を残すとされる延慶本『平家物語』では、義経は頼朝と対面しており(ただし頼朝の態度は冷淡だったと記す)、腰越状も引用していない。
長門本『平家物語』では、鎌倉で頼朝と対面したものの、冷遇されたことに失望した義経が腰越(現在の神奈川県鎌倉市腰越)で腰越状を執筆している。大島本・南都本・覚一本・中院本では、対面を許されなかった義経が腰越状を書いたとしている(『延慶本平家物語全注釈』巻11、汲古書院、2018年)。
こうした相違は、鎌倉前期に成立したとされる『平家物語』の原形(原『平家物語』)には腰越状は存在せず、腰越状の逸話が後世に付加された蓋然性を示している。
第四に、『吾妻鏡』の叙述の矛盾である。『吾妻鏡』元暦2年5月15日条を見る限り、義経は酒匂宿(現在の神奈川県小田原市酒匂)で待たされている。そして同年6月9日条には頼朝との対面がかなわぬまま、逗留していた酒匂宿から京都に戻っていったと記されているので、鎌倉入りを許されなかった義経はずっと酒匂に滞在していたはずである。
ところが『吾妻鏡』同年5月24日条は、腰越で無聊をかこち、腰越状をしたためる義経を描写している。国文学者の佐伯真一氏が推測するように、義経による宗盛護送の記事に、後から腰越状逸話を挿入したため、不自然な叙述になってしまったのだろう(『幸若舞曲研究 五』 三弥井書店、1987年)。
源氏の滅亡を必然として説明するため
歴史学者の元木泰雄氏らが論じているように、北条氏が覇権を確立した時代に幕府周辺で成立した歴史書である『吾妻鏡』は、源氏将軍家の断絶、北条氏による簒奪を正当化する側面を持つ(『源義経』吉川弘文館、2007年)。
『吾妻鏡』が検非違使自由任官問題を捏造し、腰越状逸話を採用したのは、冷酷な頼朝と傲慢な義経の対立を誇張し、源氏の滅亡を必然として説明するためだったと考えられる。
以上の考察により、腰越状は後世の偽作と捉えるべきである。