もう一人の主人公はナチ親衛隊の強制収容所所長
1943年3月13日、クラクフ近郊プワシュフ強制(労働)収容所の所長となったナチ親衛隊少尉アーモン・ゲート(レイフ・ファインズ)は、クラクフの居住区(ゲットー)を解体し、その場で1000人以上のユダヤ人を殺害し、数千人のユダヤ人を収容所に送り込んだ。ここからアーモン・ゲートがもう一人の主人公となる。
この際の無差別な殺戮シーンは目を覆いたくなるほど悲惨なものだが、この後もアーモン・ゲートが日常的に自ら銃でユダヤ人を射殺するシーン、定員オーバーとなったプワシュフからアウシュヴィッツにユダヤ人を移送するシーン、ドイツ軍の劣勢が明らかとなった1944年4月、ユダヤ人の死体を隠滅するため掘り起こして火葬するシーンなど、ナチスの非道ぶりがこれでもかとばかり描かれる。
1944年夏には東部戦線においてはすでにソ連軍がポーランド中央部に進出していた。同年10月から1945年1月にかけ、シンドラーは殺される運命にあったユダヤ人を故郷チェコに新たに作った工場に移送し、その途中間違ってアウシュヴィッツに送られたユダヤ人を自らの手で救出する。結果、彼が救ったユダヤ人の数は総計1100人に上った。その名簿が「シンドラーのリスト」である。
ナチスの実態をありのままに映像化した
この映画のポイントは3つの要素にあると思う。
①ナチスの残虐を余すところなく描くこと、群衆と個の視点を持つこと
多くのユダヤ人男女が衣服を奪われ、全裸で生死を分ける「選別」をされたり、ナチ将校の罵声を浴びながら裸のまま虐待されるシーンがあるが、そこでスピルバーグは画面処理でごまかすことはしていない。人間の尊厳への畏怖をまるで持ち合わせないナチスの実態をありのままに映像化したと言える。
本作はモノクロ作品であり、そこには本作を、白黒であることが多い第二次大戦下の「記録映画」として観客に訴求したいというスピルバーグの意図があった。これはフィクションでなく、本当にあったことなのだと強く訴えているのだ。
1943年3月のゲットー解体、ユダヤ人群衆虐殺シーンで、シンドラーの目に(映画を観ている我々の目に)たった「一人」、(色付けされた)赤い服の少女が映る。それは、虐殺される数えきれない無辜の人々、その一人一人が少女と同じ、かけがえのない一人の人間であることを伝えようとしたのだと思う。
我々は映像の中で「群衆」を観たとき、どうしても群衆を「塊」で観てしまいがちだ。しかし、群衆は一人一人の生きた人間の集まりなのである。