いまは文字は書くものじゃなく「打つ」ものになっている

【五木】たまたま昨日、原稿を書いていて、400字の原稿用紙が切れてしまった。最近、これほど困ったことはありませんでした。原稿用紙に文章を「書く」ことも、ほとんど実感がなくなってきたわけです。いまは文字は書くものじゃなく「打つ」ものになっている。ある芥川賞作家に、「原稿用紙がなくて大変だったんだよ」と言ったら、「携帯で打てばいいじゃないですか」って(笑)。その人は、子どもを抱えてあやしながら、携帯で原稿を打ってますと言ってました。プロの作家でも携帯で原稿を書くことにもはや抵抗がないんですね。

――そういう等身大の変化が歴史的な大転換と地続きなわけですね。

五木寛之『大河の一滴』(幻冬舎)
五木寛之『大河の一滴』(幻冬舎)

【五木】たとえばグーテンベルグが発明した活字印刷によって、聖書が普及し、それを読んだ人たちが免罪符などに対して疑問を持って、ローマのカトリック教会に対する不信が起こりましたよね。それで宗教改革、宗教戦争が勃発したことが、近代の出発点になりました。同じようなことが今、起こっているんじゃないですか。つまりグーテンベルグの活字印刷の時代がそろそろ終わるんですよ。

もちろん、紙の印刷物だっていくらかは残るでしょう。でも、残る・残らないという問題じゃないんです。残ると言えば、どんなものでも少しは残ります。映画が普及していったとき、演劇の時代は過ぎたと言われたけど、いまも劇場は残っています。みんながテレビを見るようになって、映画は終わったと言われたけれど、映画もちゃんと残っている。残っていくけれども、その時代のメインストリームではなくなるんです。

「自粛警察」と同じことが戦争中の「隣組」にあった

――感染が拡大するにつれて、感染者の家庭に差別的な言動を投げつけたり、休業しない店にいやがらせをしたりする「自粛警察」のような動向がメディアでよく取り上げられました。

【五木】もともと島国は同調圧力がものすごく強いところなんです。国外逃亡できないからね。これはすごく大きいですね。亡命できない国に住んでいると、同調せざるを得ないんだ。

自粛警察のようなものは今に始まったことではありません。たとえば戦争中に、隣組となりぐみというのがあった。町内で何十軒か、一つの隣組に帰属するんです。当時は、灯火管制といって、敵に見つからないように光を外に漏らさないようにしていました。隣組の組長や幹部は、夜見回りをして、ちょっとでも窓から光が漏れていると、その家に文句を言いに行くわけです。

作家 五木寛之氏
撮影=尾藤能暢
作家 五木寛之氏