運命はどちらに転ぶかわからない
使える木はすぐに伐られるが、使えないと判断されて放置された散木は、巨木になるまで育って、神木と呼ばれるようになった。さて、あなたはどちらの木がいいと思うだろうか?
大器晩成ということばにも通じ、自分の個性を失わずに伸びた木は、材とはならなかったが、世間的には役に立たなくても世俗の評価を超えた神木になれる可能性があることを、教えてくれた。
そう、材にならなくても、そのおかげで神木になれる可能性があって、運命はどちらに転ぶかわからないのだ。
人材にもなり、神木にもなるという両立なんて、自己矛盾かもしれない。それでわたしも散木をめざしたいと思い、役立った材木のみんなとは違う生き方を選ぶことにした。その道は、いつ役に立つかまったくわからないが、そのかわり曲がりくねった神々しい木にはなれるかもしれないからだ。
まあ、それも5勝10敗の幕下程度だったけれどもね。それでもいいや。
生きていることそれ自体で成功
さて、今の時代、人が勉強ということばでイメージするのは、「勉強という努力を重ねること」→「成功へと導かれる」というものだ。『荘子』にいう「材木」になることをめざすのだ。
そしてその具体的なゴールは、
②お金持ちになること
③仕事や業績により社会的な評価を得ること
という3つのことにほぼ収斂される。
だが、本来の勉強とは、人生を豊かで楽しいものにする血の通った営みのはずだ。仕事も遊びも勉強になるのなら、勉強とは生きることそれ自体でなかば達成されている。
毎日ご飯を食べたりテレビを観たり仕事をしたりすることだって勉強になるような、そういうものだった。
