瀬川は再婚後2子をもうけたという説

「べらぼう」では今後、古川雄大が演じる戯作者の山東京伝(浮世絵師の北尾政演は同一人物)は、吉原の女郎を本妻に迎え入れている。鳥山検校の「悪事」が暴かれた翌年の安永8年(1779)、江戸町一丁目の扇屋で菊園と出会い、それ以来、彼女のもとに通い続けた。ただし身請けはしていない。菊園の年季が明け、花魁の面倒を見る番頭新造として扇屋に残ったのち、寛政2年(1790)に彼女を妻に迎え入れたのだ。

しかし、菊園はそれから3年後、30歳で死んでしまう。理由は三保崎と同じだと思われる。

その後、山東京伝は流行作家になったので、金銭的な余裕もできたのだろう。寛政9年(1797)に江戸町一丁目の弥八玉屋で、客を取りはじめたばかりの玉の井と出会い、寛政12年(1800)今度は身請けをして、23歳の玉の井を後妻に迎え入れた。

『吉原傾城新美人合自筆鏡』山東京伝
『吉原傾城新美人合自筆鏡』山東京伝(メトロポリタン美術館より)

その後、彼女は病気にもならず、円満な結婚生活が続いたというが、文化13年(1816)に京伝が死去すると、狂死したと伝えられる。これも女郎時代にさかのぼるなんらかの病気が原因だった可能性は高そうだ。

ところで、大田南畝や山東京伝が身請けするなどした女郎は、だれも子供を産んでいない。女郎は性行為を重ねすぎ、さらには性病の影響もあって、妊娠しにくい体質になっていたといわれる。一方、瀬川は鳥山検校が罰せられたのち、「再婚」して子供を2人もうけた、という説がある。これが本当であれば、瀬川はまだ幸せだったといえる。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。