鳥山検校による「妻」への圧力
吉原の女郎の大半は、まだ幼いうちに貧しい親の手で、借金の担保として妓楼すなわち女郎屋に売られていた。その後、客をとれるようになると27歳ごろまで10年は年季奉公しなければならなかった。しかも、休みもほとんどない過酷な生活を強いられ、性病などの病気で命を落とすリスクも高かった。
そんな女郎たちにとって、客が年季証文を買い取ってくれる、つまり身代金を支払って女郎の身柄を引き取る身請けは、いわば合法的に吉原から抜け出るための唯一の手段であった。
とはいえ、それで幸福になれるかというと話は別である。実際、安永4年(1775)に身請けされた瀬川だったが、その3年後には鳥山検校が、幕府の盲人優遇策を逆手にとっての法外な高利貸しや悪辣な取り立ての責任を問われ、すべての資格、すべての財産を没収されたうえで江戸から追放されてしまう。
しかも、「べらぼう」では検校はお縄になる前に、瀬川にさまざまな圧力をかけて彼女を不幸へと導くようだから、瀬川が気の毒な場面を観る心構えが必要かと思われる。だが、身請けされたものの、その後は瀬川の比ではないほどの不幸に見舞われた女郎は、吉原にはごまんといたのである。
芸はできても家事はできない
自分の意志で道を選んだヨーロッパの娼婦と異なり、親による人身売買が大半だった日本の遊郭の女郎たちは、世間からは「親孝行な娘」と見られ、あまり差別されなかった。これについては、オランダ商館の医師として18世紀前半に来日したケンペルをはじめ複数のヨーロッパ人が、「日本では年季が明けた女郎がふつうに結婚している」と、驚きを書き記している。
だが、身請けされた女郎が客の正妻に収まった例は、さほど多くなかった。なにしろ身請けには巨費が必要だった。鳥山検校が瀬川のために支払った1400両(1億4000万円程度)は特別にせよ、中級以上の女郎を身請けするなら、100両(1000万円程度)単位のカネが必要になることが多く、そうとなると、豪商やよほどの上級武士でないとなかなか難しかった。こういう場合、女郎を身請けしても、すでに正妻がいることが多かったのも頷ける。
ただ、女郎は高級であるほど、客を満足させるために種々の芸を習得しており、地方の商家などでは読み書きや算盤ができることが重宝され、正妻の地位に就くこともあった。もっとも、それなりの家では、女郎上がりであることを理由に姑や小姑からいじめられて逃げ出すような例も、少なくなかったという。
また、芸は習得しても家事はからっきしできないのが普通だったので(妓楼で教わるチャンスは皆無だった)、使用人がいない家で正妻を務めるのは困難だったといわれる。
