身請けされる遊女を連れ去って刺殺
正妻か妾か、という以前に命を落とした女郎もいた。京町二丁目にあった妓楼、大菱屋の女郎の綾絹である。天明5年(1785)だから、蔦重が地本問屋として大活躍していたころのこと。富裕な商人に身請けされることになったのだが、4000石という大身の旗本、藤枝教行(通称は外記)が彼女に惚れこんでいた。
だが、綾絹が身請けされるというので、藤枝はショックを受けるが、当時はこれほど大身の旗本でも、豪商なら支払える身請け金を支払うのは困難だった。このため綾絹を吉原から連れ出した。つまり足抜けをねらったのだ。しかし、すぐに発覚。吉原は商売道具である女郎の逃亡には厳しく目を光らせており、追手が迫った。
絶望した藤枝は綾絹を刺殺してから自害した。綾絹はわずか19歳。一方、29歳の藤枝には19歳の妻がいたという。藤枝家が改易になったのはいうまでもない。
仙台高尾の話も、真偽は定かではないが記しておこう。一説によると、仙台藩主の伊達綱宗は3000両(3億円程度)も支払って、吉原の高級遊女(太夫)の筆頭だった高尾を身請けしたが、彼女はいっこうに体を許さない。いくら脅しても態度が変わらないので、怒った綱宗は高尾を船上で逆さ吊りにして斬り、川に投げ捨てたという。
綱宗は万治元年(1658)、満18歳で伊達藩の3代藩主になったが、遊蕩がすぎて同3年(1660)、強制的に隠居させられた。このため、綱宗の放蕩ぶりを象徴すべくこの俗説が生まれた、という見方が有力だ。しかし、俗説だったとしても、吉原の女郎はこの程度のあつかいを受けるという社会の通念を下敷きにしているとすれば、似たような話は珍しくもなかったのではないだろうか。

桐谷健太が直面する悲劇
もっと身近な例も挙げよう。いずれ「べらぼう」に登場する大田南畝(狂歌を詠む狂名は四方赤良)。桐谷健太が演じるこの戯作者は本職が下級の幕臣で、吉原で遊ぶのが好きだった。そして天明5年(1785)11月、瀬川が所属していた松葉屋で、三保崎という下級の女郎を知ってのめり込んだ。その挙句、翌天明6年7月、三保崎を身請けしたのである。

下級の女郎の身代金は中級以上にくらべるとまだ安く、数十両(数百万円)が相場だったようだが、それでも下級の幕臣には、支払うのは大変だっただろう。「原稿料」を充てたのかもしれない。しかも、両親、妻、2人の子供がいる身での身請けである。さすがに本宅には住まわせられないので、別に妾宅を用意したという。
しかし、7年後の寛政5年(1793)、三保崎は30歳前後で病死している。妓楼では、あたえられた休日は1年に正月と盆の2日しかなく、毎日、性行為に明け暮れなければならない女郎の身体は、相当に蝕まれたようだ。そのうえ、ほとんどすべての女郎は梅毒などの性病に感染していたといい、とりわけ梅毒は、当時は不治の病だった。
せっかく身請けされても、そのときには市井の生活を十分に楽しめるだけの年月が残されていなかった、という女郎は多かった。