
1億4000万円で身請けされた「瀬川」のその後
吉原遊郭の代名詞のような花魁、江戸町一丁目の大見世、松葉屋の五代目瀬川(小芝風花)は、盲目の大富豪である鳥山検校(市原隼人)に1400両(1億4000万円程度)で身請けされ、吉原を去っていった。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第10回「『青楼美人』の見る夢は」(3月9日放送)。
第11回「富本、仁義の馬面」(3月16日)では、「人妻」となった瀬川が登場した。即興で踊りや芝居をする吉原のイベント「俄」に、浄瑠璃の太夫で「馬面太夫」の異名がある富本牛之助(寛一郎)を呼びたい蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)。発案者の大文字屋(伊藤淳史)と連れ立って、浄瑠璃の元締めでもある鳥山検校のもとを訪れた。検校に牛之介への口添えを頼もうというのだった。
検校宅に住まう瀬川は、いまでは「瀬以」と呼ばれていた。久しぶりに会った蔦重と親密なやり取りを交わすが、それを聞いていたのが「夫」の鳥山検校だった。2人の関係に不信感を募らせ、嫉妬を募らせる検校。蔦重に「力になれない」と伝え、一度、牛之助の浄瑠璃を聴いてみてもらえないかと頼まれても、つれない返事をする。瀬川が蔦重の後押しをするので、なおさら不信感を募らせた感じだった。
とはいえ、検校は牛之助の浄瑠璃を聴いて納得し、彼が「豊前太夫」を襲名することを認めるのだが、礼をいう瀬川に「そなたの望むことはすべて叶えると決めた」と、不気味なニュアンスを湛えて伝えた。今後、2人のあいだに不幸な展開が訪れることを、象徴しているかのようだった。
鳥山検校による「妻」への圧力
吉原の女郎の大半は、まだ幼いうちに貧しい親の手で、借金の担保として妓楼すなわち女郎屋に売られていた。その後、客をとれるようになると27歳ごろまで10年は年季奉公しなければならなかった。しかも、休みもほとんどない過酷な生活を強いられ、性病などの病気で命を落とすリスクも高かった。
そんな女郎たちにとって、客が年季証文を買い取ってくれる、つまり身代金を支払って女郎の身柄を引き取る身請けは、いわば合法的に吉原から抜け出るための唯一の手段であった。
とはいえ、それで幸福になれるかというと話は別である。実際、安永4年(1775)に身請けされた瀬川だったが、その3年後には鳥山検校が、幕府の盲人優遇策を逆手にとっての法外な高利貸しや悪辣な取り立ての責任を問われ、すべての資格、すべての財産を没収されたうえで江戸から追放されてしまう。
しかも、「べらぼう」では検校はお縄になる前に、瀬川にさまざまな圧力をかけて彼女を不幸へと導くようだから、瀬川が気の毒な場面を観る心構えが必要かと思われる。だが、身請けされたものの、その後は瀬川の比ではないほどの不幸に見舞われた女郎は、吉原にはごまんといたのである。
芸はできても家事はできない
自分の意志で道を選んだヨーロッパの娼婦と異なり、親による人身売買が大半だった日本の遊郭の女郎たちは、世間からは「親孝行な娘」と見られ、あまり差別されなかった。これについては、オランダ商館の医師として18世紀前半に来日したケンペルをはじめ複数のヨーロッパ人が、「日本では年季が明けた女郎がふつうに結婚している」と、驚きを書き記している。
だが、身請けされた女郎が客の正妻に収まった例は、さほど多くなかった。なにしろ身請けには巨費が必要だった。鳥山検校が瀬川のために支払った1400両(1億4000万円程度)は特別にせよ、中級以上の女郎を身請けするなら、100両(1000万円程度)単位のカネが必要になることが多く、そうとなると、豪商やよほどの上級武士でないとなかなか難しかった。こういう場合、女郎を身請けしても、すでに正妻がいることが多かったのも頷ける。
ただ、女郎は高級であるほど、客を満足させるために種々の芸を習得しており、地方の商家などでは読み書きや算盤ができることが重宝され、正妻の地位に就くこともあった。もっとも、それなりの家では、女郎上がりであることを理由に姑や小姑からいじめられて逃げ出すような例も、少なくなかったという。
また、芸は習得しても家事はからっきしできないのが普通だったので(妓楼で教わるチャンスは皆無だった)、使用人がいない家で正妻を務めるのは困難だったといわれる。

身請けされる遊女を連れ去って刺殺
正妻か妾か、という以前に命を落とした女郎もいた。京町二丁目にあった妓楼、大菱屋の女郎の綾絹である。天明5年(1785)だから、蔦重が地本問屋として大活躍していたころのこと。富裕な商人に身請けされることになったのだが、4000石という大身の旗本、藤枝教行(通称は外記)が彼女に惚れこんでいた。
だが、綾絹が身請けされるというので、藤枝はショックを受けるが、当時はこれほど大身の旗本でも、豪商なら支払える身請け金を支払うのは困難だった。このため綾絹を吉原から連れ出した。つまり足抜けをねらったのだ。しかし、すぐに発覚。吉原は商売道具である女郎の逃亡には厳しく目を光らせており、追手が迫った。
絶望した藤枝は綾絹を刺殺してから自害した。綾絹はわずか19歳。一方、29歳の藤枝には19歳の妻がいたという。藤枝家が改易になったのはいうまでもない。
仙台高尾の話も、真偽は定かではないが記しておこう。一説によると、仙台藩主の伊達綱宗は3000両(3億円程度)も支払って、吉原の高級遊女(太夫)の筆頭だった高尾を身請けしたが、彼女はいっこうに体を許さない。いくら脅しても態度が変わらないので、怒った綱宗は高尾を船上で逆さ吊りにして斬り、川に投げ捨てたという。
綱宗は万治元年(1658)、満18歳で伊達藩の3代藩主になったが、遊蕩がすぎて同3年(1660)、強制的に隠居させられた。このため、綱宗の放蕩ぶりを象徴すべくこの俗説が生まれた、という見方が有力だ。しかし、俗説だったとしても、吉原の女郎はこの程度のあつかいを受けるという社会の通念を下敷きにしているとすれば、似たような話は珍しくもなかったのではないだろうか。

桐谷健太が直面する悲劇
もっと身近な例も挙げよう。いずれ「べらぼう」に登場する大田南畝(狂歌を詠む狂名は四方赤良)。桐谷健太が演じるこの戯作者は本職が下級の幕臣で、吉原で遊ぶのが好きだった。そして天明5年(1785)11月、瀬川が所属していた松葉屋で、三保崎という下級の女郎を知ってのめり込んだ。その挙句、翌天明6年7月、三保崎を身請けしたのである。

下級の女郎の身代金は中級以上にくらべるとまだ安く、数十両(数百万円)が相場だったようだが、それでも下級の幕臣には、支払うのは大変だっただろう。「原稿料」を充てたのかもしれない。しかも、両親、妻、2人の子供がいる身での身請けである。さすがに本宅には住まわせられないので、別に妾宅を用意したという。
しかし、7年後の寛政5年(1793)、三保崎は30歳前後で病死している。妓楼では、あたえられた休日は1年に正月と盆の2日しかなく、毎日、性行為に明け暮れなければならない女郎の身体は、相当に蝕まれたようだ。そのうえ、ほとんどすべての女郎は梅毒などの性病に感染していたといい、とりわけ梅毒は、当時は不治の病だった。
せっかく身請けされても、そのときには市井の生活を十分に楽しめるだけの年月が残されていなかった、という女郎は多かった。
瀬川は再婚後2子をもうけたという説
「べらぼう」では今後、古川雄大が演じる戯作者の山東京伝(浮世絵師の北尾政演は同一人物)は、吉原の女郎を本妻に迎え入れている。鳥山検校の「悪事」が暴かれた翌年の安永8年(1779)、江戸町一丁目の扇屋で菊園と出会い、それ以来、彼女のもとに通い続けた。ただし身請けはしていない。菊園の年季が明け、花魁の面倒を見る番頭新造として扇屋に残ったのち、寛政2年(1790)に彼女を妻に迎え入れたのだ。
しかし、菊園はそれから3年後、30歳で死んでしまう。理由は三保崎と同じだと思われる。
その後、山東京伝は流行作家になったので、金銭的な余裕もできたのだろう。寛政9年(1797)に江戸町一丁目の弥八玉屋で、客を取りはじめたばかりの玉の井と出会い、寛政12年(1800)今度は身請けをして、23歳の玉の井を後妻に迎え入れた。

その後、彼女は病気にもならず、円満な結婚生活が続いたというが、文化13年(1816)に京伝が死去すると、狂死したと伝えられる。これも女郎時代にさかのぼるなんらかの病気が原因だった可能性は高そうだ。
ところで、大田南畝や山東京伝が身請けするなどした女郎は、だれも子供を産んでいない。女郎は性行為を重ねすぎ、さらには性病の影響もあって、妊娠しにくい体質になっていたといわれる。一方、瀬川は鳥山検校が罰せられたのち、「再婚」して子供を2人もうけた、という説がある。これが本当であれば、瀬川はまだ幸せだったといえる。