「メールのJ-PHONE」はシェア拡大のため大液晶を求めた
1997(平成9)年、携帯電話単体でメールを送受信できる「スカイウォーカー」のサービスが始まり、目論見通り、若い世代を中心に人気を博した。この年から、デジタルホングループは「J-PHONE」をブランド名として使い始め、スカイウォーカーが評判になったことで「メールのJ-PHONE」と呼ばれるようになった。とはいえ、いまだシェアは10%にも届かず、先行する2社には遠く及ばない。
時を同じくして、新しい端末作りに苦しんでいた高尾の脳裏には、一つのアイデアが浮かんでいた。スカイウォーカーのような非音声系サービスをさらに充実させ、メールの利便性を高めるには、画面に表示できる文字数をもっと増やさなければならない。そのためには大きな液晶が必要になる。
J-PHONE×シャープ、ケータイ業界の弱小タッグが誕生
ある日、ある端末メーカーの営業マンが、高尾の前で言葉をこぼした。「高尾さん、このままだと、うちは携帯事業から撤退せざるを得ない状況なんです」そのメーカーとは、当時J-PHONEと付き合いのある端末メーカーの中で、最も売上高が低かったシャープである。
「ちょっと待って」
高尾は驚いた。高尾は、高専時代にシャープの天理工場を見学した時のことを鮮明に覚えていた。当時すでにシャープは高い液晶技術を持ち、壁掛けテレビの研究開発が進められていた。液晶技術だけでなく、小型携帯情報端末・ザウルスを生み出した発想力やデジタル技術もある。これからのJ-PHONEが求める技術を持っているメーカーは、ほかでもないシャープだと考えていた。
「J-PHONEとシャープが手を組めば、もっと売れる端末ができる。事業撤退はもったいない」
そう直感した高尾は、シャープに端末の共同開発を持ちかけた。
最後発で最後尾のシャープには、失敗しても失うものがなかった。なによりパーソナル通信事業部を率いる山下晃司は、J-PHONEが、端末メーカーの中でも弱小のシャープを選んでくれたことがうれしかった。通常、端末開発の主導権は通信キャリアにあり、メーカーの立場は弱い。しかしJ-PHONEの提案は「共同開発」だった。端末の仕様や戦略を一緒に考え、お互いが対等な立場で話し合うことができる。キャリアの指示通りにものをつくるより、面白いことができると思った。