※本稿は、NHK「新プロジェクトX」制作班『新プロジェクトX 挑戦者たち 1』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。
1991年設立の新会社は“寄せ集めチーム”で始動した
1991(平成3)年、とある携帯電話会社の設立が発表された。東京・市ヶ谷の雑居ビルで創業した東京デジタルホン、後のJ-PHONEである。携帯電話事業の競争に出遅れ、最後尾からのスター卜だった。
東京デジタルホンは、急成長する市場にあやかろうと、国鉄の鉄道通信インフラを引き継いだ日本テレコムを中心に、鉄鋼会社、自動車メーカーなどが出資して作られた。
100人ほどの社員は、大半が出資元の企業からの出向者。内実は急場で作った“寄せ集めの会社”だった。
一方、東京デジタルホンへの出向に密かな希望を抱いていた者もいた。自動車メーカーのマツダから来た高尾慶二である。高尾は地元の高専を卒業後、大学、大学院と電気工学を学び、マツダに入社した。機械系の技術者が大半を占める自動車メーカーでは少数派の電気系エンジニアとして、走行中の自動車の衛星通信技術に関する研究開発に没頭していた。
マツダは社員3万人を抱える大企業である。そこからたった100人の会社への出向を“左遷”と見る向きもあった。しかし、高尾の思いは違った。
「自分の中では左遷的な意味合いはなかった。携帯電話という道具をもらって、これがめちゃくちゃ面白かった」
大企業では歯車の一つに過ぎない自分も、出向先では誇れる仕事ができるかもしれない。そんな期待もあった。通信技術に大きな可能性を感じていた高尾にとって、携帯電話会社への出向は、自動車メーカーでは知り得ないノウハウを吸収する絶好のチャンスだった。
ポケベルに代わるケータイ端末を売り出すという狙い
しかし、開業から数年が経っても、加入者は伸び悩み、東京デジタルホンの苦戦は続いていた。そんな中、社内で新たなサービスの準備が進んでいた。携帯電話で文字のメッセージをやり取りするサービスである。
1990年代半ば、若い世代のコミュニケーションツールの代表格といえば、ポケベルだった。ポケベルは、受信したメッセージを表示することはできるが、送信機能はない。そのため、街中の公衆電話には“ベル友”にメッセージを送ろうと、高校生が列を作っていた。
携帯電話から文字を送受信できるようになれば、その手間はなくなる。しかも、若者に文字通信の文化が根付いたことで、携帯端末を使ったメッセージの送受信には、将来的なニーズも期待できた。東京デジタルホンの狙いは明確だった。
「メールのJ-PHONE」はシェア拡大のため大液晶を求めた
1997(平成9)年、携帯電話単体でメールを送受信できる「スカイウォーカー」のサービスが始まり、目論見通り、若い世代を中心に人気を博した。この年から、デジタルホングループは「J-PHONE」をブランド名として使い始め、スカイウォーカーが評判になったことで「メールのJ-PHONE」と呼ばれるようになった。とはいえ、いまだシェアは10%にも届かず、先行する2社には遠く及ばない。
時を同じくして、新しい端末作りに苦しんでいた高尾の脳裏には、一つのアイデアが浮かんでいた。スカイウォーカーのような非音声系サービスをさらに充実させ、メールの利便性を高めるには、画面に表示できる文字数をもっと増やさなければならない。そのためには大きな液晶が必要になる。
J-PHONE×シャープ、ケータイ業界の弱小タッグが誕生
ある日、ある端末メーカーの営業マンが、高尾の前で言葉をこぼした。「高尾さん、このままだと、うちは携帯事業から撤退せざるを得ない状況なんです」そのメーカーとは、当時J-PHONEと付き合いのある端末メーカーの中で、最も売上高が低かったシャープである。
「ちょっと待って」
高尾は驚いた。高尾は、高専時代にシャープの天理工場を見学した時のことを鮮明に覚えていた。当時すでにシャープは高い液晶技術を持ち、壁掛けテレビの研究開発が進められていた。液晶技術だけでなく、小型携帯情報端末・ザウルスを生み出した発想力やデジタル技術もある。これからのJ-PHONEが求める技術を持っているメーカーは、ほかでもないシャープだと考えていた。
「J-PHONEとシャープが手を組めば、もっと売れる端末ができる。事業撤退はもったいない」
そう直感した高尾は、シャープに端末の共同開発を持ちかけた。
最後発で最後尾のシャープには、失敗しても失うものがなかった。なによりパーソナル通信事業部を率いる山下晃司は、J-PHONEが、端末メーカーの中でも弱小のシャープを選んでくれたことがうれしかった。通常、端末開発の主導権は通信キャリアにあり、メーカーの立場は弱い。しかしJ-PHONEの提案は「共同開発」だった。端末の仕様や戦略を一緒に考え、お互いが対等な立場で話し合うことができる。キャリアの指示通りにものをつくるより、面白いことができると思った。
「伸び悩む電話会社」と「崖っぷちの端末メーカー」で下剋上を
業界最後発同士の共同開発は、失敗に終わる可能性も十分考えられた。しかしこの時、高尾にも、山下の同僚であるシャープの植松丈夫にも、未来が“見えて”いた。
「普通なら、弱小と弱小が組んでも何も起こらないと考えるかもしれませんが、私には見える景色があった。だから組みたいと強く思いました」(高尾)
「お互い最後発ですが、それぞれ長所がある。J-PHONEは型にはまらない斬新なサービスに積極的で勢いがありました。シャープは家電で培った技術やノウハウがあり、液晶やカメラの部品力に長けていた。その2社が融合することで、新しい世界が広がったんだと思います」(植松)
両社が目指したのは、液晶を前面に押し出し、ポケベルよりも長いメールを送ることができる携帯電話。このアイデアが、後にカメラ付き携帯電話に発展することになる。伸び悩む電話会社と、端末メーカーの崖っぷち事業部。下剋上を狙う弱小連合は、こうして誕生した。
シャープ初のヒット端末が出たが、故障が相次ぎ……
1997(平成9)年、J-PHONEとシャープによる携帯電話端末の共同開発が始まった。その翌年には、共同開発1号機となるJ-SHO1を発表。大きな液晶画面に、当時最多の48文字を表示できることが話題になり、シャープの端末としては初のヒットを記録した。
しかし、喜びもつかの間、端末の内部で基板から部品が剝がれ落ちる故障が相次ぎ、生産ラインを止める騒ぎが起こる。東京に出張中だった山下は、駅のホームで上司から電話を受け、トラブルを知った。
「どやされましたよ。大変なことになってる、どないなっとんや! って」
故障が起きた要因は、ユーザーが端末をどのように扱うかという理解が不足していたことにあった。例えば、ポケットに端末を入れたまま座る場合など、強い物理的ストレスに耐えうる設計や技術の蓄積がシャープにはなかった。新しい技術を盛り込みながら短期間で開発したひずみが、故障という形で現れてしまった。
さらに、1999(平成11)年1月、衝撃的なニュースが飛び込んできた。業界最大手のNTTドコモが、携帯電話だけでインターネットにアクセスできる世界初のサービス「iモード」を発表したのだ。
NTTドコモの革命的なサービス「iモード」に打ちのめされる
iモードの登場は、携帯電話に革命的な変化をもたらした。ニュース、天気予報、株価情報、モバイルバンキングなど、iモード向けのコンテンツが次々に登場し、ユーザーはいつどこにいても、携帯電話さえあればインターネット経由でさまざまなサービスが利用できるようになった。発表からわずか半年で、100万人のユーザーがNTTドコモに殺到した。J-PHONEには解約の申し出が相次いだ。
「やられた」とJ-PHONEのエンジニア・太田洋は思った。実はJ-PHONEも同じようなサービスを開始すべく準備を進めていたのだが、先を越された。それだけではない。すぐには真似できないと頭を抱えたのは、iモードでドコモが導入したパケット通信だった。
パケット通信とは、通信データを一定の長さのパケットに分割して送受信する通信方法をいう。通常、携帯電話のような無線通信にはノイズが入りやすいが、パケット通信はエラーが起きたパケットだけを再送できるので、効率的にデータ通信を行うことができる。しかし、当時のJ-PHONEには、パケット通信に投資する余裕はなかった。
NTTドコモの資本力、社会への影響力、加入者数を考えれば、iモードは脅威以外の何物でもなかった。
悔しかったのは、端末開発の責任者になっていた高尾も同じだった。
一人のエンジニアとしては、iモードの技術に感服せざるをえない。しかし、非音声系サービスにJ-PHONEの活路を見出していた身としては、ウェブサービスでiモードに先を越されたのは痛恨の極みだった。
ヒト・モノ・カネの全てを持つドコモと、ないないづくしのJ-PHONE。同じ土俵で戦っても勝算は低い。iモードとは違う場所で戦わなければならない。何をすればいいのか――。高尾は悶々としていた。
「大手を真似しろ」と言われたが、メール機能にこだわる
解約率の上昇に焦ったJ-PHONEの上層部は、悩みを深める高尾に対して、彼の考えとは真逆の指示を出した。「大手を真似た端末を開発してはどうか」というのだ。
「当時、ドコモとIDO・セルラーグループ(後のau)が、音楽プレーヤー機能付きの端末を出すという噂がありました。だから『お前も作れ』って言われたんですよ。でも、違う。何かが違う」
高尾は、自分たちの最大の強みは「メールのJ-PHONE」であることだと踏んでいた。音楽プレーヤー付き端末は、その強みとまるで結びつかない。違う。端末課の同僚には真面目なサラリーマンタイプと評されていた高尾だが、「他社を真似ろ」という上からの指示は一切聞かず、馬耳東風と受け流した。
この時、高尾はすでに出向者の立場ではなくなっている。出向期間が終了した後はマツダに戻る予定だったが、そうはしなかったのだ。
携帯電話会社への出向が決まった時、高尾は通信の専門的な技術やノウハウを学び、マツダに持ち帰るつもりでいた。しかし、東京デジタルホンでの仕事は、高尾を想像以上にワクワクさせるものだった。マツダでは、製品のほんの一部分にしか関わることができないが、端末課ではユーザーに喜ばれる端末のスペックを考え、ものを作り、届けることができる。しかも、新車の開発スパンに比べると、携帯電話の開発スパンは1年と短い。ユーザーにダイレクトに繫がるものを、次々と生み出せる携帯電話の仕事に、高尾はすっかり魅了されていた。
※「後編」に続く