逆らえる者は誰もいない
じつは、これらの諸大名の陣の多くにも、茶室や能舞台が築かれていた。だが、それは彼らがこの地で余暇を楽しみたかったからではない。朝鮮半島に渡った将や兵は20万にもなるが、彼らには生きて帰国できる保証がないどころか、多くが帰国できないことを覚悟して海を渡った。むろん、陣を築いた大名自身も多くの場合、兵を率いて渡海しており、彼らに茶や能を楽しむ余裕があったとは考えられない。
しかし、秀吉がみずからの城にそれを設けている以上、大名たちもマネしないわけにはいかなかった。そうしないと、どんな処分が下るかわからなかったからである。フロイスはこう書く。
「この名護屋の建築事業に従事した身分の高い武将たちは、おのおのが他の武将に劣るまいと努力した。というのは、彼らはたとえ些細な怠慢や手落ちでも、そこで工事の進行を司る者から公然と叱責を被るのみならず、そのことで関白に訴えられ、同様の理由をもって追放処分に付され、関白への奉仕には役立たぬ者、無能な者として封禄を没収されることを特に恐れていたからである」
部下の命よりも大事な秀頼
どんな負担にでも耐えて秀吉のご機嫌をとらないかぎり、自身のクビが危うかった。そのために過酷な労働や供出を強いられた庶民も、たまったものではなかった。
この名護屋城は以後、豊臣秀吉が死んで朝鮮出兵が中止されるまでの7年間、その拠点となった。
しかし、秀吉は到着して3カ月後に、母の大政所危篤の報を受けて帰京。そのときは戻ってきたが、翌文禄3(1594)年8月、淀殿が拾(のちの秀頼)を出産すると狂喜して大坂城に駆けつけ、その後、二度と名護屋に戻ることはなかった。この事実こそが、秀吉という人間とその権力を象徴している。