道長は「北の方」の倫子の妊娠中にもうひとりの妻と結婚
道長には、倫子の他にもう一人の正式な妻、源明子(編集部註:大河ドラマでは「あきこ」)がいた。
安和2(969)年に起こった「安和の変」で大宰権帥に左遷された醍醐天皇皇子左大臣源高明の娘である。明子は父の兄弟盛明親王に育てられていたが、親王が亡くなると、道長の姉で一条天皇の母である皇太后詮子(編集部註:大河ドラマでは「あきこ」)に引き取られ、養われていた。
道長は、女房たちにうまく取り入り、多くの競争相手を後目に、詮子の許しも得て、明子を妻にする。明子と道長の結婚がいつだったのかは、わからない。皇太后詮子が許したのだから、倫子との結婚より早かったのではないか、との説も出されている。ただし、子どもの誕生などからみて、やはり倫子が長女彰子を身ごもっている間、永延2(988)年ころの結婚であろう。妻の妊娠期間中に、他の女を求める夫たちの姿は、いつの時代でも同じようである。
道長はなかなか「まめ男」のようで、倫子と明子の2人に、ほぼ同じように子どもを産ませている。倫子は、彰子・頼通・妍子・教通・威子・嬉子の二男四女を産む。明子は、頼宗・顕信・能信・寛子・尊子・長家の四男二女を産んでいる。
二人目の妻・明子の身分も高かったが、子どもには差がついた
この2人が道長の正式な妻だった。しかし、立場は同じではない。『大鏡』は、「この殿は、北の方二所おはします」とか、「この北の政所の二人」とあり、倫子と明子の二人の妻が同じ立場だったように記しているが、実際はそうではない。
藤原実資の日記『小右記』には、倫子のことは「北方」と記されるのに、明子は「妾妻」と書かれたり、邸宅の「高松殿」との呼称しかない。倫子が正妻の北の方で、明子が次妻だったことは間違いない。
子どもたちの待遇も違っていた。倫子の産んだ息子たちは、元服したとき、正五位下に叙されたのに、明子の息子たちは、一段階下の従五位上であった。したがって昇進も倫子の子どもたちの方がはるかに早い。倫子が産んだ頼通と明子所生の頼宗を比べてみると、頼通が元服し正五位下になるのは12歳のとき、頼宗が元服するのは13歳で従五位上だった。頼通はすでに15歳で正三位に昇るのに、頼宗が正三位になるのは21歳、3歳年下の倫子が産んだ教通はすでに正三位になっていた。明子の息子たちが、頼通や教通に反感をもつのは当然だった。