※本稿は、服藤早苗『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。
平安時代の「通い婚」に女性の自己決定権はほぼなかった
「結婚」を国語辞典で引くと、「夫婦になること」とあった。男女が出会って性愛関係をもっても結婚ではない。夫婦になるためには、社会的手続きが必要とされていた。その手続きは、時代によって違っている。
まずは、『源氏物語』の書かれる少し前、天暦8(954)年から天延2(974)年ころまでのことを記したとされている『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母の場合をみてみると、中級以上の貴族が正式な結婚をするには、男からの求婚と、女の父母の承諾が必要だった。すでに女性自身での結婚決定権はなくなっていた。
道綱母の結婚から30数年後の、藤原道長と左大臣源雅信の娘、倫子(編集部註:大河ドラマでは「ともこ」)の場合も同じである。道長の栄華を描いた歴史物語書『栄花物語』巻三「さまざまなよろこび」に詳しく記されている。道長は、なにかの機会に姫君の「うわさ」を聞いたか、ちらっと「垣間見」て、どうにかして男女の仲になりたいと心深く思い、手紙を出す。
しかし、倫子の父親は、「なんと馬鹿馬鹿しい。もってのほかだ。誰があのように口わき黄ばみたる青二才をわが家に出入りさせるものか」と反対する。ところが倫子の母親の藤原穆子は賢い女性であり、ふだんから道長が馬に乗る姿をみたりしていて、とても将来性を買っている。なんとか夫を説得して結婚にこぎつけた。
男は身分が高い舅に婿取られる「逆玉」を望んでいた
永延1(987)年、道長22歳、倫子24歳のことである。なお、当時、最初の結婚は妻の方が年上の場合が多い。「年上の人」は、ごくふつうだったのである。12世紀中ころ、道長の子孫藤原頼長の日記『台記別記』には、
と記されている。「道長が倫子のもとに渡った」のである。道長と倫子の結婚は、「婿どり」であり、道長が倫子の邸宅土御門殿にいくかたちだった。当時の史料には、「婿取」とされることが多い。
結婚式は、妻の両親が婿を迎える、婿取式である。当時、夫方が嫁を取る儀式は、天皇と東宮以外のどの階層にもなかった。妻の親が、当面の新居になる家に婿を迎える。今でいえば、『サザエさん』の「マスオさん」である。男たちは、身分の高い、財力ある「舅」に婿取られることを望んでいた。「逆玉」がふつうだった。