田沼が賄賂をもらったというのは政敵たちの流した悪評
田沼意次と言えば、昔から賄賂政治家と言われてきた。しかし歴史学者の大石慎三郎氏は、旗本や大名が書き残した賄賂話を丁寧に検証した結果、いずれも個人的な恨みによるもの、あるいは政敵・松平定信派と目される人物の手によるものであり、「そのどれもが作為された悪評」と指摘している(同氏『田沼意次の時代』)。
一方、9代・家重は言語不明瞭だったうえ大奥に入り浸っていたとか、10代・家治も趣味の将棋などに没頭して政治を顧みない暗君だったなどと言われ、意次はそれに乗じて権勢をほしいままにしたと喧伝されてきた。「家重・家治=暗君説」と「意次=悪人説」はワンセットだ。
しかし果たしてそうだろうか。意次が行った数々の政策は、当時の経済的苦境の打開につながり得る先進的なものが多い。そして意次がそれらを推進できたのは、家重・家治の後押しがあったからこそだ。意次の政策を高く評価して仕事を任せた家重・家治は決して暗君ではなかったと筆者は思っている。
田沼は吉宗の「成長重視の積極策・金融緩和」路線を推進した
吉宗の政策は「緊縮財政・金融引き締め」と「成長重視の積極策・金融緩和」という二つの側面を持っていたが、意次の政策は主としてその後者を受け継ぐものであり、それは時代の変化に対応するものでもあった。
宝暦4年(1754)、美濃国で農民千人が郡上八幡の城下に集結し、年貢徴収法変更の撤回を求める嘆願書を藩に提出した。これが郡上一揆の始まりとなり、郡上藩はいったん農民の要求を受け入れたが、後に否定し、結局、新徴収法の実施を申し渡した。実は、これは老中の本多正珍や若年寄の本多忠央が藩主の金森頼錦と縁戚関係にあり、この2人が郡上藩のために動いたのだった。
将軍・家重は、大騒動の背後に幕府要職にある者が絡んでいるのではないかと疑いを持ったらしい。宝暦8年(1758)7月、幕府はこの事件を評定所で審議することに決定した。評定所は幕府の裁判に関する最高機関で、老中の指揮の下、寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、目付で構成される。
このとき、御用取次役だった意次は、審議開始にあたって町奉行を呼び、「将軍の『御疑い』がかかっている事件なので、たとえ要職の者が絡んでいたとしても遠慮なく詮議をするように」と話したという。今風に言えば「忖度なしでやれ」ということだ。だが実際に老中や勘定奉行などが絡んでいたため、やはり審議は難航したようだ。