二代将軍・徳川秀忠は娘の和子を入内させ、天皇の外戚になろうとした。京都大学名誉教授の藤井讓治さんは「秀忠は寛永3年に大軍を率いて上洛し、後水尾天皇をはじめとする朝廷に徳川の力を見せつけた。そして、朝廷支配を深めていくが、後水尾天皇は突然、秀忠の孫である女一宮に譲位し、幕府に痛烈な一撃を食らわせた」という――。

※本稿は、藤井讓治『シリーズ 日本近世史1 戦国乱世から太平の世へ』(岩波新書)の一部を再編集したものです。

尾形光琳作「後水尾天皇像」
尾形光琳作「後水尾天皇像」(写真=宮内庁書陵部蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀忠の娘・和子は後水尾天皇の后となるが、既に皇子がいた

元和6年6月18日、秀忠の娘和子まさこが後水尾天皇のもとに入内じゅだいする。和子入内は慶長17年に朝廷に申し入れられるが、大坂の陣などで延び延びとなる。元和4年、入内の準備が再開され、翌年の秀忠上洛のおり入内と決定するが、そこに天皇が寵愛した「およつ御寮人ごりょうにん」(四辻公遠よつつじきんとおの娘)とのあいだに皇子が誕生していたことが幕府の耳に入る。天皇の外戚の地位に就こうとしていた徳川氏にとってはゆゆしき事態である。賀茂宮かものみやと呼ばれたこの皇子は、一般の皇室系図にはその名を見出せないが、元和8年に5歳で死去する。

元和5年、上洛した秀忠は、和子入内を延期する。入内延期を聞いた天皇は、右大臣近衛信尋のぶひろに、入内の延期は、きっと自分の行跡ぎょうせきが秀忠公の心にあわないからだと思う、入内の遅延は公武ともに面目がたたないので、弟の誰にでも即位させ、自分は落飾らくしょくして逼塞ひっそくすればことは収まるだろう、もし当年中に入内がないならば、このように取り計らうよう伝えてほしいと告げ、秀忠に再考をうながす。

宮廷政治に介入しプレッシャーをかける秀忠

これに秀忠は、近年禁中に遊女や白拍子しらびょうしなどを引き入れ日夜酒宴を催しているのは、公家衆法度にも違反しておりもってのほかであると、公家の処分を天皇に奏上し、天皇に圧力をかける。その結果、近臣3人が丹波や豊後に流され、数名の公家の出仕が止められる。この処分に逆鱗げきりんした天皇は、信尋に、公家の処分はもっともであるが、こうした事態が起きたのは自分に器量がないからであり、将軍もみかぎられたためであろう、これでは禁中もすたれ、武家のためにも良くないので、兄弟のうちいずれかの即位を将軍に申し入れるようにと、皮肉も交えながら指示する。

天皇の申し入れに秀忠は、将軍の意向を尊重するようにとの圧力をかけ、同時に処分された公家を入内後に召し出すと譲歩する。この動きに天皇も折れ、「この上は、何様いかようとも公方様御意くぼうさまぎょい次第しだい」と秀忠の意向をむ。

幕府は、和子入内にあたって警固の名目でお付の武士を禁裏に配する。幕府の役人が直接禁裏へ入り込む初めての出来事である。その後まもなく女御にょうご付の武士は2人に増員され、さらに仙洞せんとう付、禁裏付武士の配置へとつながっていく。そして幕府の勅使派遣が、入内を機に始まり、以降特別な事情がないかぎり幕末まで続く。