寛永3年の二条城行幸で徳川の力を見せつけ天皇の外戚に
後水尾天皇は、9月6日から5日間、二条城へと行幸する。行幸に先立ち、天皇は、家光を従一位右大臣に、秀忠を太政大臣に推任する。家光はそれを受け、秀忠は固辞し左大臣となる。行幸の日、家光が天皇を迎えに禁裏へと向かい、大御所秀忠は二条城にあって天皇を迎える。迎えの行列は、所司代板倉重宗を先頭に、馬上の従五位下諸大夫の武家262人、年寄の土井利勝・酒井忠世が続き、家光の牛車が進む。その後に徳川義直・徳川頼宣・徳川忠長・徳川頼房が従い、続いて伊達政宗以下四品以上の49人の大名が続く。江戸に残ったものを除くとほぼすべての大名がこの行列のなかにあった。
天皇は鳳輦に乗り、家光先導のもと公卿を従えて二条城に入る。6日には祝の膳があり、7日には家光から、8日には秀忠から天皇をはじめ公家衆に対し夥しい進物が贈られる。行幸から戻った天皇は、秀忠を太政大臣、家光を左大臣に任じる。
この二条城行幸は、大名を京に集め、迎えの行列に従わせることで、徳川氏への臣従を確かなものとし、また徳川氏に反感をもつ公家をはじめとする諸勢力に徳川氏の力を見せ付ける。それとともに和子の入内、女一宮の誕生といった融和への流れのなかで、幕府と朝廷のあいだでの軋轢にとどめをさそうとするものであった。
翌年起こった勅許をめぐる「紫衣事件」とは?
蜜月を迎えたかにみえた幕府と朝廷との関係は、二条城行幸の翌寛永4年7月に大御所秀忠が、禅僧への紫衣・上人号の勅許が家康の定めた法度に違反するとして勅許の無効を命じたことで大きく揺らぐ。紫号・上人号許可の権限は天皇に属したが、禁中并公家中諸法度、諸宗寺院法度には紫号や上人号の勅許は慎重にとの規定があり、それに違反しているというのである。幕府法度が天皇の意志に優越することを再確認させる出来事である。
多くの寺は幕府の処置に従うが、大徳寺の沢庵宗彭、玉室宗珀、江月宗玩の3人は寛永5年の春、抗議の書を所司代板倉重宗に提出し、元和元年(1615)、大徳寺に宛てられた法度の各条の来歴・意味を細かに述べ、処分の不当性を指摘する。
江戸に送られた抗議書に応え幕府は、勅許の効力の一部を回復させ、ことの終息を計る。しかしなお抗議を続けた沢庵を出羽上山、玉室を陸奥棚倉、妙心寺の東源慧等を陸奥津軽、単伝士印を出羽由利へと寛永6年に配流する。ただ、江月宗玩は、抗議書に署判したものの罪は軽いとして処分をまぬがれる。