家光が三代将軍となり、秀忠は「大御所」になるが……
元和9年(1623)7月、秀忠とともに上洛した家光は、伏見城において将軍宣下を受け、三代将軍となる。家光の将軍宣下後の閏8月、秀忠は暹羅(編集部註:現在のタイ)の使節を二条城で引見する。「日本国王」秀忠の国書に秀忠は「日本国源秀忠 回章」と記し不法を働く日本人を処罰することを約した書翰を暹羅「国主」に送る。
一方、新将軍家光は、暹羅使節を伏見城に引見したものの、暹羅国主へ書翰を送っていない。家光が将軍となっても、秀忠は依然として対外的には「日本国王」であった。
江戸に帰ってからも秀忠は江戸城本丸に、家光は西丸に入る。しかし、同年10月、秀忠は、自らの所領として70万石を残し、黄金50万枚、五畿内残らず、関東にて200万石、金銀山残らず、大番衆の一部を家光に譲る。秀忠から家光への政権委譲を示す、将軍職の譲り渡しに続く出来事である。
元和10年正月、諸大名はまず西丸の家光の元へ年頭の礼に行き、ついで本丸の秀忠に礼を済ます。形式の上では将軍としての家光の地位が重んじられている。同月25日、西丸へ登城を命じられた大名たちは、去る23日に秀忠から家光に「御馬しるし」が渡され、「天下御仕置」が家光に任されたと申し渡される。軍事指揮権の象徴である「御馬しるし」が委譲され、天下の仕置が任されたとなれば、家光は全権を譲られたことになる。
代替わりから3年経っても秀忠は領知宛行権を持っていた
さらに同年(2月に寛永と改元)9月、秀忠は本丸を出て西丸へ移り、11月に家光が本丸に入る。政権の委譲が形式的にも整ったことを示す出来事ともいえる。しかし、ことはそう簡単ではない。寛永2年(1625)、将軍家光ではなく大御所秀忠から譜代大名・旗本に宛て多数の領知朱印状が出る。これは家光の将軍襲職後も領知宛行権が秀忠の下にあることを示すものである。
寛永3年(1626)6月、後水尾天皇の二条城行幸執行のため、大御所秀忠は、先陣に伊達政宗・佐竹義宣など東国大名21人を置き、本陣を譜代大名と旗本で固め、継後陣に堀直寄・溝口宣勝等を置く大部隊で上洛する。8月には将軍家光も上洛するが、その軍勢は、蒲生忠郷などわずかを除き一門・譜代大名・旗本で構成され、その規模は秀忠の3分の1にも及ばない。このことは、大名への軍事指揮権が依然として秀忠の手にあったことを示している。