※本稿は、藤井讓治『シリーズ 日本近世史1 戦国乱世から太平の世へ』(岩波新書)の一部を再編集したものです。
秀忠の娘・和子は後水尾天皇の后となるが、既に皇子がいた
元和6年6月18日、秀忠の娘和子が後水尾天皇のもとに入内する。和子入内は慶長17年に朝廷に申し入れられるが、大坂の陣などで延び延びとなる。元和4年、入内の準備が再開され、翌年の秀忠上洛のおり入内と決定するが、そこに天皇が寵愛した「およつ御寮人」(四辻公遠の娘)とのあいだに皇子が誕生していたことが幕府の耳に入る。天皇の外戚の地位に就こうとしていた徳川氏にとってはゆゆしき事態である。賀茂宮と呼ばれたこの皇子は、一般の皇室系図にはその名を見出せないが、元和8年に5歳で死去する。
元和5年、上洛した秀忠は、和子入内を延期する。入内延期を聞いた天皇は、右大臣近衛信尋に、入内の延期は、きっと自分の行跡が秀忠公の心にあわないからだと思う、入内の遅延は公武ともに面目がたたないので、弟の誰にでも即位させ、自分は落飾して逼塞すればことは収まるだろう、もし当年中に入内がないならば、このように取り計らうよう伝えてほしいと告げ、秀忠に再考をうながす。
宮廷政治に介入しプレッシャーをかける秀忠
これに秀忠は、近年禁中に遊女や白拍子などを引き入れ日夜酒宴を催しているのは、公家衆法度にも違反しておりもってのほかであると、公家の処分を天皇に奏上し、天皇に圧力をかける。その結果、近臣3人が丹波や豊後に流され、数名の公家の出仕が止められる。この処分に逆鱗した天皇は、信尋に、公家の処分は尤もであるが、こうした事態が起きたのは自分に器量がないからであり、将軍もみかぎられたためであろう、これでは禁中も廃れ、武家のためにも良くないので、兄弟のうちいずれかの即位を将軍に申し入れるようにと、皮肉も交えながら指示する。
天皇の申し入れに秀忠は、将軍の意向を尊重するようにとの圧力をかけ、同時に処分された公家を入内後に召し出すと譲歩する。この動きに天皇も折れ、「この上は、何様とも公方様御意次第」と秀忠の意向を呑む。
幕府は、和子入内にあたって警固の名目でお付の武士を禁裏に配する。幕府の役人が直接禁裏へ入り込む初めての出来事である。その後まもなく女御付の武士は2人に増員され、さらに仙洞付、禁裏付武士の配置へとつながっていく。そして幕府の勅使派遣が、入内を機に始まり、以降特別な事情がないかぎり幕末まで続く。
家光が三代将軍となり、秀忠は「大御所」になるが……
元和9年(1623)7月、秀忠とともに上洛した家光は、伏見城において将軍宣下を受け、三代将軍となる。家光の将軍宣下後の閏8月、秀忠は暹羅(編集部註:現在のタイ)の使節を二条城で引見する。「日本国王」秀忠の国書に秀忠は「日本国源秀忠 回章」と記し不法を働く日本人を処罰することを約した書翰を暹羅「国主」に送る。
一方、新将軍家光は、暹羅使節を伏見城に引見したものの、暹羅国主へ書翰を送っていない。家光が将軍となっても、秀忠は依然として対外的には「日本国王」であった。
江戸に帰ってからも秀忠は江戸城本丸に、家光は西丸に入る。しかし、同年10月、秀忠は、自らの所領として70万石を残し、黄金50万枚、五畿内残らず、関東にて200万石、金銀山残らず、大番衆の一部を家光に譲る。秀忠から家光への政権委譲を示す、将軍職の譲り渡しに続く出来事である。
元和10年正月、諸大名はまず西丸の家光の元へ年頭の礼に行き、ついで本丸の秀忠に礼を済ます。形式の上では将軍としての家光の地位が重んじられている。同月25日、西丸へ登城を命じられた大名たちは、去る23日に秀忠から家光に「御馬しるし」が渡され、「天下御仕置」が家光に任されたと申し渡される。軍事指揮権の象徴である「御馬しるし」が委譲され、天下の仕置が任されたとなれば、家光は全権を譲られたことになる。
代替わりから3年経っても秀忠は領知宛行権を持っていた
さらに同年(2月に寛永と改元)9月、秀忠は本丸を出て西丸へ移り、11月に家光が本丸に入る。政権の委譲が形式的にも整ったことを示す出来事ともいえる。しかし、ことはそう簡単ではない。寛永2年(1625)、将軍家光ではなく大御所秀忠から譜代大名・旗本に宛て多数の領知朱印状が出る。これは家光の将軍襲職後も領知宛行権が秀忠の下にあることを示すものである。
寛永3年(1626)6月、後水尾天皇の二条城行幸執行のため、大御所秀忠は、先陣に伊達政宗・佐竹義宣など東国大名21人を置き、本陣を譜代大名と旗本で固め、継後陣に堀直寄・溝口宣勝等を置く大部隊で上洛する。8月には将軍家光も上洛するが、その軍勢は、蒲生忠郷などわずかを除き一門・譜代大名・旗本で構成され、その規模は秀忠の3分の1にも及ばない。このことは、大名への軍事指揮権が依然として秀忠の手にあったことを示している。
寛永3年の二条城行幸で徳川の力を見せつけ天皇の外戚に
後水尾天皇は、9月6日から5日間、二条城へと行幸する。行幸に先立ち、天皇は、家光を従一位右大臣に、秀忠を太政大臣に推任する。家光はそれを受け、秀忠は固辞し左大臣となる。行幸の日、家光が天皇を迎えに禁裏へと向かい、大御所秀忠は二条城にあって天皇を迎える。迎えの行列は、所司代板倉重宗を先頭に、馬上の従五位下諸大夫の武家262人、年寄の土井利勝・酒井忠世が続き、家光の牛車が進む。その後に徳川義直・徳川頼宣・徳川忠長・徳川頼房が従い、続いて伊達政宗以下四品以上の49人の大名が続く。江戸に残ったものを除くとほぼすべての大名がこの行列のなかにあった。
天皇は鳳輦に乗り、家光先導のもと公卿を従えて二条城に入る。6日には祝の膳があり、7日には家光から、8日には秀忠から天皇をはじめ公家衆に対し夥しい進物が贈られる。行幸から戻った天皇は、秀忠を太政大臣、家光を左大臣に任じる。
この二条城行幸は、大名を京に集め、迎えの行列に従わせることで、徳川氏への臣従を確かなものとし、また徳川氏に反感をもつ公家をはじめとする諸勢力に徳川氏の力を見せ付ける。それとともに和子の入内、女一宮の誕生といった融和への流れのなかで、幕府と朝廷のあいだでの軋轢にとどめをさそうとするものであった。
翌年起こった勅許をめぐる「紫衣事件」とは?
蜜月を迎えたかにみえた幕府と朝廷との関係は、二条城行幸の翌寛永4年7月に大御所秀忠が、禅僧への紫衣・上人号の勅許が家康の定めた法度に違反するとして勅許の無効を命じたことで大きく揺らぐ。紫号・上人号許可の権限は天皇に属したが、禁中并公家中諸法度、諸宗寺院法度には紫号や上人号の勅許は慎重にとの規定があり、それに違反しているというのである。幕府法度が天皇の意志に優越することを再確認させる出来事である。
多くの寺は幕府の処置に従うが、大徳寺の沢庵宗彭、玉室宗珀、江月宗玩の3人は寛永5年の春、抗議の書を所司代板倉重宗に提出し、元和元年(1615)、大徳寺に宛てられた法度の各条の来歴・意味を細かに述べ、処分の不当性を指摘する。
江戸に送られた抗議書に応え幕府は、勅許の効力の一部を回復させ、ことの終息を計る。しかしなお抗議を続けた沢庵を出羽上山、玉室を陸奥棚倉、妙心寺の東源慧等を陸奥津軽、単伝士印を出羽由利へと寛永6年に配流する。ただ、江月宗玩は、抗議書に署判したものの罪は軽いとして処分をまぬがれる。
徳川のやり方に反発した天皇は「譲位」というカードを切る
天皇は、紫衣・上人号勅許が無効とされた直後に譲位の意向を示すが、中宮和子の子である高仁親王誕生を踏まえ幕府は譲位を引き延ばす。寛永5年、高仁親王の死を機に天皇は女一宮への譲位を天皇は幕府に伝えるが、秀忠から「いまたをそからぬ御事」と譲位延期が伝えられる。
さらに同6年、天皇は持病の痔の治療を理由に譲位の意向を三たび表明する。痔の治療には灸が効果があるとされていたが、天皇の体を傷付ける治療はタブーとされていた。相談を受けた摂家衆も譲位やむなしとするが、女一宮の即位に反対の幕府は返答を遅らせる。
こうしたなか寛永6年上洛した家光の乳母の福が天皇への拝謁を望む。天皇にとっては無位無官のものの拝謁は受け入れがたかったが、福が武家伝奏三条西実条の妹分となり、拝謁を実現させる。この時天皇は「春日」の局号を福に与える。
この一件の直後、天皇は女一宮興子の内親王宣下を決め、11月8日「俄の譲位」を決行する。これに驚いた所司代板倉重宗は、「俄の御譲位」「言語道断の事」と怒りをあらわにするが、もはや如何ともしがたく、中宮付の天野長信が顧末を知らせるために江戸に向け京都を発つ。
春日局が強引に天皇に拝謁し、後水尾天皇は電撃的に退位
幕府はしばらく朝廷の動きを静観するも、12月には譲位は是非なしと追認する。翌年7月、秀忠は、江戸にいた板倉重宗に、興子内親王即位にあたっては後水尾天皇即位同様に道具を調え即位日は9月上旬の吉日とし、即位後の居所は後水尾天皇の即位時同様とすること、後陽成院のときの院領をもって後水尾院の領地とし、院参衆の人数も後陽成院の時同様とすること、摂家衆は女帝を助けること、公家衆は学問を励むこと、中宮の作法、摂家・親王・門跡等の参上時の手順、伝奏の件、武家官位の執奏、禁裏の年中の「御政」は1万石で勤めること等々を指示する。
そして9月12日、7歳の興子内親王が即位し明正天皇となる。奈良時代の称徳天皇の死去以来859年ぶりの女帝である。
即位の後、幕府は武家伝奏中院通村の罷免と日野資勝の伝奏補任を申し入れ、朝廷に受け入れさせる。さらに摂家衆はよく談合し天皇に意見を申し、また公家に家々の学問について権現様(編集部註:家康のこと)の定めに相違なきよう申し渡すことを命じ、もし万一無沙汰があれば摂家衆の落度とすると伝える。
後水尾天皇の突然の譲位は、幕府にとっては痛烈な一撃であったが、この機会をとらえて、朝廷のあり方や院の行動に制限を加え、また伝奏の任免に介入し、武家官位の幕府による独占を確認する。さらに摂家を天皇・朝廷の意思決定に深くかかわらせ、公家支配を行わせ、その不履行については「落度」とすると明言することで、摂家を幕府の朝廷支配機構のなかに位置付けることを再度確認する。