ドラマ「大奥」(フジテレビ系)に老中・田沼意次(安田顕)が登場し、将軍の弱みを握って出世していく悪代官ぶりが話題だ。経済評論家の岡田晃さんは「賄賂政治など『意次=悪人説』は広く信じられているが、意次は8代将軍・吉宗による経済成長重視の積極策を引き継いだ。その先進的な政治は9代・家重や10代・家治ら将軍の後押しなしにはできなかった」という――。

※本稿は、岡田晃『徳川幕府の経済政策 その光と影』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

田沼意次の父は吉宗の紀州藩主時代からの側近だった

享保元年(1716)、8代将軍となる吉宗が紀州藩士を伴って江戸城入りし、その中に田沼意行おきゆきという人物がいた。

意行はもともと足軽だったと言われているが、吉宗が紀州藩主となる前の部屋住み時代から仕え、吉宗が紀州藩主になると小姓を務めた。さらに吉宗の将軍就任とともに幕臣(旗本)となり、そのまま新将軍の小姓となっている。吉宗からの信頼が厚かったという。

それから3年後の享保4年、意行に長男が生まれた。意次である。意次は16歳のとき、吉宗の世子・家重(後の9代将軍)の小姓に召し出された。翌年に父親の死を受けて600石の遺領を引き継ぎ、延享2年(1745)、家重が将軍に就任すると、意次もそれに従って新将軍の小姓となった。意次27歳。親子2代で将軍の小姓となったわけだ。

意次もまた家重からの信頼が厚かった。家重の将軍就任から6年後、大御所・吉宗が亡くなり、名実ともに家重の時代となるが、この時、意次は家重の御用取次役に任命された。吉宗が将軍就任に伴い新設した、あのポストである。

ここから、意次は出世街道を突っ走っていくことになる。40歳になった宝暦8年(1758)、遠州相良藩1万石の大名に取り立てられた。

9代将軍・家重は10代・家治に「意次を重用せよ」と遺言

家重は宝暦10年に引退するが(翌年死去)、その後を継いで10代将軍となる息子の家治に「意次を大事にして用いるように」と遺言したという。家治は父の言葉に従って、意次の御用取次役を留任させた。時に家治24歳、意次42歳。家治は、自分よりはるかに年上の父の側近をその後も登用し続けた。

家治は意次の石高を次々と加増し、将軍就任7年後には御用取次役より格上の側用人に任命した。そしてその3年後には側用人のまま、ついに老中に任命した。元足軽の息子が老中に就任するという異例の出世を遂げたのだった。石高もその後、最終的には5万7000石となった。

「徳川家治像」18世紀
「徳川家治像」18世紀(画像=徳川記念財団蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

この経過を見ると、家治は単に父の遺言を守ったというより、それ以上に意次を積極的に引き上げたと言ったほうが当たっている。江戸時代の側用人と言えば、綱吉時代の柳沢吉保が有名だが、柳沢は老中格・大老格となったものの、正式に老中・大老になったわけではなかった。側用人が老中に就任したのは意次が初めてだ。

だが意次の異例の出世は、同僚や譜代大名たちの嫉妬を買うことになる。そのうえ意次が打ち出す政策の多くは、当時の常識や譜代大名の価値観からは受け入れがたいものであった。そのことが、意次の悪評が広がる一因となる。

田沼が賄賂をもらったというのは政敵たちの流した悪評

田沼意次と言えば、昔から賄賂政治家と言われてきた。しかし歴史学者の大石慎三郎氏は、旗本や大名が書き残した賄賂話を丁寧に検証した結果、いずれも個人的な恨みによるもの、あるいは政敵・松平定信派と目される人物の手によるものであり、「そのどれもが作為された悪評」と指摘している(同氏『田沼意次の時代』)。

一方、9代・家重は言語不明瞭だったうえ大奥に入り浸っていたとか、10代・家治も趣味の将棋などに没頭して政治を顧みない暗君だったなどと言われ、意次はそれに乗じて権勢をほしいままにしたと喧伝されてきた。「家重・家治=暗君説」と「意次=悪人説」はワンセットだ。

しかし果たしてそうだろうか。意次が行った数々の政策は、当時の経済的苦境の打開につながり得る先進的なものが多い。そして意次がそれらを推進できたのは、家重・家治の後押しがあったからこそだ。意次の政策を高く評価して仕事を任せた家重・家治は決して暗君ではなかったと筆者は思っている。

「田沼意次像」18世紀
「田沼意次像」18世紀(画像=牧之原市史料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

田沼は吉宗の「成長重視の積極策・金融緩和」路線を推進した

吉宗の政策は「緊縮財政・金融引き締め」と「成長重視の積極策・金融緩和」という二つの側面を持っていたが、意次の政策は主としてその後者を受け継ぐものであり、それは時代の変化に対応するものでもあった。

宝暦4年(1754)、美濃国で農民千人が郡上八幡の城下に集結し、年貢徴収法変更の撤回を求める嘆願書を藩に提出した。これが郡上一揆の始まりとなり、郡上藩はいったん農民の要求を受け入れたが、後に否定し、結局、新徴収法の実施を申し渡した。実は、これは老中の本多正珍まさよしや若年寄の本多忠央ただなかが藩主の金森頼錦よりかねと縁戚関係にあり、この2人が郡上藩のために動いたのだった。

将軍・家重は、大騒動の背後に幕府要職にある者が絡んでいるのではないかと疑いを持ったらしい。宝暦8年(1758)7月、幕府はこの事件を評定所で審議することに決定した。評定所は幕府の裁判に関する最高機関で、老中の指揮の下、寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、目付で構成される。

このとき、御用取次役だった意次は、審議開始にあたって町奉行を呼び、「将軍の『御疑い』がかかっている事件なので、たとえ要職の者が絡んでいたとしても遠慮なく詮議をするように」と話したという。今風に言えば「忖度そんたくなしでやれ」ということだ。だが実際に老中や勘定奉行などが絡んでいたため、やはり審議は難航したようだ。

田沼が忖度なしに老中らの不正を暴いた郡上八幡一揆事件

そこで2カ月後の9月、家重は意次に評定所への出座を命じた。御用取次役が評定所に加わるのは初めてだ。御用取次役はその名のとおり、将軍と幕閣などとの間を取り次ぐのが役目であり、意思決定機関である評定所のメンバーとなるのは異例のことだった。ここに、家重の事件解決への強い意思と意次への期待が表れている。これを見ても、家重が暗君だったとは思えない。

同年10月、評定所の審議は決した。老中・本多正珍を罷免・逼塞ひっそく、若年寄・本多忠央や勘定奉行・大橋親義を改易とするなど、幕府最高幹部への処分はまれに見る厳しいものになった。さらに当事者である郡上藩主・金森頼錦は改易、家臣も各々処分とし、農民側も13人を獄門死罪、そのほか遠島・所払い・過料などとした。

これらを忖度なしでまとめた意次の手腕は、将軍の意向がバックにあったとはいえ、並々ならぬものがあったと言えるだろう。しかも評定所の構成メンバー全員が意次より格上なのだから。その剛腕ぶりが、譜代大名の怨みを買い、やがて失脚の一因にもなるのだが、それはもう少し後の話。

ちなみに現在、岐阜県郡上市八幡町では毎年夏に有名な「郡上おどり」が催される。7月中旬から30夜以上にわたって開催され、特に8月のお盆の4日間は午前4時頃まで徹夜で踊り続ける壮大なもので、全国から踊り手や観光客が集まり、国の重要無形文化財にもなっている。これは、改易された金森氏の後に領主となった青山氏が、一揆で分断された藩内四民の融和のために始めたと言われている。

2019年の「郡上おどり」の様子、岐阜県郡上市
写真=iStock.com/kyonntra
2019年の「郡上おどり」の様子、岐阜県郡上市(※写真はイメージです)

年貢の増収策をあきらめ「米本位経済」からの脱却をめざす

ここでもう一つ重要な点は、意次が郡上一揆の審議を通じて、年貢増徴の限界を痛感したことである。このことが、意次が数々の新政策を打ち出すきっかけにもなっている。

意次はこの頃から幕政の中心を担うようになる。意次がとった政策は、幕府財政の増収策という枠を超えるものだった。主な経済政策は、①商業重視と流通課税②新産業の創出と殖産興業③通貨の一元化④鉱山開発⑤対外政策の積極策――など多岐にわたる。また相良藩主としても、家臣に対し年貢増徴を戒めるとともに、殖産興業策やインフラ整備を進めている。

意次の政策の特徴は、収入源を年貢に頼る「米本位経済」から脱却し、新たな産業である商業・金融の発展や殖産興業によって経済活性化と財政立て直しを図ろうとしたことだった。既存の常識に縛られず、時代の変化をとらえた大胆な改革だったのである。現在になぞらえれば、成長戦略であり構造改革である。実際には失敗したものも少なくなかったが、後の近代化につながるものも含まれている。

田沼による画期的な構造改革「商業重視と流通課税」

元禄期以降、幕府は財政の悪化に対応し、まず荻原重秀が出目を狙った元禄改鋳を行い、次いで正徳期には新井白石主導による緊縮財政、そして享保期には吉宗の新田開発と年貢増徴など、さまざまな財政立て直し策がとられてきた。それぞれ一時的には効果があったものの、根本的な解決には至らず、財政悪化は慢性化していた。

岡田晃『徳川幕府の経済政策 その光と影』(PHP新書)
岡田晃『徳川幕府の経済政策 その光と影』(PHP新書)

そこで意次は吉宗時代の倹約・歳出抑制策は継続しつつ、成長著しい商業や金融業に課税して幕府の収入を増やすという政策を打ち出した。具体的には、商人たちの業種や商品ごとに幅広く株仲間を公認して、その代わりに運上金または冥加みょうが金を納めさせた。

株仲間は、吉宗時代に「米価安の諸色高」と言われた物価高を抑えるため、商人たちに特権を与える代わりに物価統制に従わせる狙いで公認したものだが、意次はより多くの業種株仲間を結成させ、それを利用して課税することにしたのだ。田沼時代に公認された株仲間は、両替商や質屋、菜種問屋、綿実問屋、油問屋、酒造、さらには飛脚、菱垣廻船問屋など幅広い分野に及んでいる。

商人たちの「株仲間」を認め、課税して幕政増収を狙った

田沼時代の経済政策の古典的研究書である『転換期幕藩制の研究』(中井信彦著)によると、大坂では宝暦末年(1764)から安永年間(〜1781)までに、幕府が公認して冥加金を上納させた株仲間が127にのぼったという。

株仲間からの課税金額は幕府財政全体から見れば、それほど大きいものではなかったが、年貢以外の収入源を広げようという意図があったことは明白だ。しかもそれは単に「増収策」という次元にとどまらず、米中心の経済から商品流通の発展という変化に対応した構造改革政策だったという点に、その意義がある。

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これは他の政策にも共通する視点だ。一例として印播沼干拓事業がある。同事業は一般的には新田開発が目的と理解されているが、実は“流通革命”の狙いも込められていた。北方や太平洋側からの物資を船で江戸に運ぶには房総半島の外側を回り込む必要があるが、意次は印播沼の干拓と同時に幹線運河を造成して流通経路を大幅に短縮することを考えていたという。計画は実現しなかったが、意次が流通を重視していたことを表している。