10代将軍家治は祖父の名君・吉宗にかわいがられて育った
家治の生まれた頃(1737年)には、祖父の吉宗は未だ健在でした(吉宗は1751年に病没)。吉宗は初孫誕生を大いに喜び、家治(幼名は竹千代)を身近において育てます。
家治の父・家重は言語に障害があったようで、その言葉を理解できたのは、側近の大岡忠光のみだったと言われています。さらに、家重は酒色に溺れたともされます。そうした状況でしたので、吉宗は家重に将軍職を譲った後も大御所として、死ぬまで実権を握り続けたのでした。
吉宗はわが子の家重に孫(家治)の養育を任せていたら、とんでもないことになると思い、自らの手元に置いたのかもしれません。家治は幼少の頃、聡明だったようで、吉宗はそれを喜び、政治の要諦を教えたとのこと(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書『徳川実紀』)。家治も祖父の期待によく応えて、和漢の書籍を広く読み、歴代の事績をよく暗記していました。吉宗が病となった際には、湯薬を自ら勧めたという家治。吉宗が亡くなったときには、深く慟哭したという家治。その様子を見て、周りの者は感動したようです。吉宗と家治の関係性がよく分かる逸話です。
そんな家治が正室の倫子を迎えたのが、寛延2年(1749)のこと。倫子は同年2月5日に京都を出発。3月19日に江戸に到着。浜御殿(徳川将軍家の別邸)に入るのです。宝暦3年(1753)11月11日、縁組の披露が行われます。そしてついに、翌年(1754)12月1日、倫子は江戸城西の丸に輿入れするのです。
家治と17歳のとき江戸城に嫁いだ倫子の夫婦仲は良かった
家治は18歳、倫子は17歳となっていました。倫子は「簾中御方」(貴人の正妻)と呼ばれることになります。倫子が初めての子を産んだのは、宝暦6年(1756)、婚礼の式から2年後のことでした。家治との間に長女の千代姫が生まれるのです。
ところが、千代姫は宝暦7年(1757)に亡くなってしまいます。その3年後、家治が将軍職を継承。正室の倫子も江戸城本丸に移ることになります。翌年(1761年)、倫子は次女の万寿姫を出産(しかし、姫も12歳で夭折)。このようなことから、家治と倫子の夫婦仲は良かったと推測されています。
「正室を皇室または公卿から迎えるのが将軍家のならわしで、愛情の有無なぞとんとおかまいなしの政略結婚だったから、徳川歴代の夫人たちが不幸な生涯をおくりがちだったのもむしろあたりまえである。ところが、倫子のばあいだけは別で、家治との仲も睦まじく、やがて生れた姫を夫婦してめでいつくしむさまが、そこらのマイ・ホームの仕合せを絵にかいたようなぐあいだったのは、たしかに一つの異例と言ってよい」(江上照彦『悪名の論理 田沼意次の生涯』中公新書、1969年)との見解もあるほどです。