江戸中期を描くドラマ「大奥」のニューヒロイン倫子
1月18日から、フジテレビでドラマ「大奥」が放送されます。主人公は女優の小芝風花さんが演じる倫子。江戸幕府の10代将軍・徳川家治の正室(御台所)となった女性です。一般には馴染みのない女性と言えましょう。では、令和版「大奥」のヒロイン・倫子とは、どのような女性だったのでしょうか。
倫子が生まれたのは、元文3年(1738)のこと。父は閑院宮直仁親王。直仁親王の父は東山天皇(第113代天皇)なので、倫子は天皇の孫として生まれたということになります。閑院宮というのは古くから存在する宮家ではなく、江戸時代中期の宝永7年(1710)に新井白石(6代将軍・家宣に仕えた学者)の進言と公家・近衛基熙の周旋により創設されたものです(祖は直仁親王)。
話を倫子に戻すと、彼女の母は、閑院宮家の女房の讃岐でした。直仁親王には家女房の妻とは別に妃がいて、それは近衛脩子。関白・近衛基熙の娘です。倫子の母と比べて、格段に身分が高かったと言えます。脩子は娘・治子女王を産んでいます(男子は産まず、治子女王も1747年に28歳で亡くなっています)。さて、倫子女王の幼名は五十宮と言いましたが、彼女に転機が訪れます。寛延元年(1748)、倫子10歳のときです。
8代将軍吉宗から3代続けて宮家から正妻を迎えた
京都所司代(京都の治安維持、朝廷の監察や連絡、京都町奉行らの統率を担う幕府の役職)の牧野貞通が朝廷と交渉して、徳川家治と倫子の婚約をまとめたのでした。では、ここで、家治の前半生を見ておきましょう。家治は元文2年(1737)の生まれですので、倫子の1つ年上ということになります。家治の父は、9代将軍となる徳川家重(有名な8代将軍・吉宗の子)。母はお幸の方。お幸の方は、家重の側室です。家重の正室は、皇族・伏見宮邦永親王の第4王女(増子女王)。
ちなみに、吉宗も紀州藩主時代に伏見宮家から正室を迎えていますので、8代(吉宗)・9代(家重)・10代(家治)と宮家から正室を迎えたことになります。
家重の正室・増子は、産後の肥立ちが悪く、享保18年(1733)に死去(増子の産んだ子も、出生後、程なく死去)。正室が死去して後、家重に寵愛されたのが、増子のお側付(貴人の側に仕える)として京都から江戸に入っていたお幸の方でした。そして、前述のように、家治を産むのです。
10代将軍家治は祖父の名君・吉宗にかわいがられて育った
家治の生まれた頃(1737年)には、祖父の吉宗は未だ健在でした(吉宗は1751年に病没)。吉宗は初孫誕生を大いに喜び、家治(幼名は竹千代)を身近において育てます。
家治の父・家重は言語に障害があったようで、その言葉を理解できたのは、側近の大岡忠光のみだったと言われています。さらに、家重は酒色に溺れたともされます。そうした状況でしたので、吉宗は家重に将軍職を譲った後も大御所として、死ぬまで実権を握り続けたのでした。
吉宗はわが子の家重に孫(家治)の養育を任せていたら、とんでもないことになると思い、自らの手元に置いたのかもしれません。家治は幼少の頃、聡明だったようで、吉宗はそれを喜び、政治の要諦を教えたとのこと(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書『徳川実紀』)。家治も祖父の期待によく応えて、和漢の書籍を広く読み、歴代の事績をよく暗記していました。吉宗が病となった際には、湯薬を自ら勧めたという家治。吉宗が亡くなったときには、深く慟哭したという家治。その様子を見て、周りの者は感動したようです。吉宗と家治の関係性がよく分かる逸話です。
そんな家治が正室の倫子を迎えたのが、寛延2年(1749)のこと。倫子は同年2月5日に京都を出発。3月19日に江戸に到着。浜御殿(徳川将軍家の別邸)に入るのです。宝暦3年(1753)11月11日、縁組の披露が行われます。そしてついに、翌年(1754)12月1日、倫子は江戸城西の丸に輿入れするのです。
家治と17歳のとき江戸城に嫁いだ倫子の夫婦仲は良かった
家治は18歳、倫子は17歳となっていました。倫子は「簾中御方」(貴人の正妻)と呼ばれることになります。倫子が初めての子を産んだのは、宝暦6年(1756)、婚礼の式から2年後のことでした。家治との間に長女の千代姫が生まれるのです。
ところが、千代姫は宝暦7年(1757)に亡くなってしまいます。その3年後、家治が将軍職を継承。正室の倫子も江戸城本丸に移ることになります。翌年(1761年)、倫子は次女の万寿姫を出産(しかし、姫も12歳で夭折)。このようなことから、家治と倫子の夫婦仲は良かったと推測されています。
「正室を皇室または公卿から迎えるのが将軍家のならわしで、愛情の有無なぞとんとおかまいなしの政略結婚だったから、徳川歴代の夫人たちが不幸な生涯をおくりがちだったのもむしろあたりまえである。ところが、倫子のばあいだけは別で、家治との仲も睦まじく、やがて生れた姫を夫婦してめでいつくしむさまが、そこらのマイ・ホームの仕合せを絵にかいたようなぐあいだったのは、たしかに一つの異例と言ってよい」(江上照彦『悪名の論理 田沼意次の生涯』中公新書、1969年)との見解もあるほどです。
乳母の松島は家治に側室を持たせ、後継者誕生を狙った
しかし、将軍・家治の周囲の人々の悩みとしては、男子がなかなか生まれなかったことでしょう。が、家治は側室をすぐに持とうとはしませんでした。家治の次代・家斉(11代将軍)などは、側室が40人余りいたといいますから、それと比べても、家治の「真面目」さがうかがえます。家治に男子が誕生しないことを危惧したのが、家治の乳母だった松島でした。
松島は老中・田沼意次と相談し、家治に側室を持つことを提案したとされます。すると家治は、意次にも側室を持つことを持ちかけるのでした。「お前(意次)が側室を持つのならば、自分(家治)も持とう」と言ったのです。そのような経緯があり、家治は側室を置くことになります。それが、お知保の方です。
お知保の方は、津田宇右衛門信成の娘と言われています。一説によると、お知保は信成の養女であり、実家は貧家だったようです。家治付の中臈(女官)となったお知保は、宝暦12年(1762)、家治の子を産みます。幼名は竹千代、後の徳川家基です。家基は御台所・倫子の養子となります。明和6年(1769)、家基は将軍・家治の世子(後継者)として、西の丸に入ります。家基は後々、11代将軍となるはずでしたが、18歳の若さで病没。こうしたことにより、家基は「幻の11代将軍」とも呼ばれます。
11代将軍と目された男子を産んだ側室とは?
家治にはもう1人、品(倫子の侍女)という側室がいました。品も家治の男子(貞次郎)を産んでいますが、すぐに病没しています。後継者となるべき、自らの男子が次々と病没していく。この不幸の結果、家治は一橋家から養子を迎えることになります。一橋治済の長男・家斉です。家治が、天明6年(1786)に病没したことから、翌年、家斉が11代将軍に就任します。
家治は、少年時代には祖父・吉宗に期待をかけられ、鋭敏でしたが、将軍に就任してからは、老中・田沼意次が実権を持ち「田沼政治」を展開したことから「凡庸」という評価があります。その家治の正室となった倫子は、明和8年(1771)8月に病で亡くなります。まだ34歳でした。夫から愛され、子どももできて、短いながらも、幸せな生涯だったのではないでしょうか。