乳母の松島は家治に側室を持たせ、後継者誕生を狙った

しかし、将軍・家治の周囲の人々の悩みとしては、男子がなかなか生まれなかったことでしょう。が、家治は側室をすぐに持とうとはしませんでした。家治の次代・家斉(11代将軍)などは、側室が40人余りいたといいますから、それと比べても、家治の「真面目」さがうかがえます。家治に男子が誕生しないことを危惧したのが、家治の乳母だった松島でした。

松島は老中・田沼意次と相談し、家治に側室を持つことを提案したとされます。すると家治は、意次にも側室を持つことを持ちかけるのでした。「お前(意次)が側室を持つのならば、自分(家治)も持とう」と言ったのです。そのような経緯があり、家治は側室を置くことになります。それが、お知保の方です。

お知保の方は、津田宇右衛門信成の娘と言われています。一説によると、お知保は信成の養女であり、実家は貧家だったようです。家治付の中臈ちゅうろう(女官)となったお知保は、宝暦12年(1762)、家治の子を産みます。幼名は竹千代、後の徳川家基です。家基は御台所・倫子の養子となります。明和6年(1769)、家基は将軍・家治の世子(後継者)として、西の丸に入ります。家基は後々、11代将軍となるはずでしたが、18歳の若さで病没。こうしたことにより、家基は「幻の11代将軍」とも呼ばれます。

現在の皇居(江戸城跡)
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現在の皇居(江戸城跡)(※写真はイメージです)

11代将軍と目された男子を産んだ側室とは?

家治にはもう1人、品(倫子の侍女)という側室がいました。品も家治の男子(貞次郎)を産んでいますが、すぐに病没しています。後継者となるべき、自らの男子が次々と病没していく。この不幸の結果、家治は一橋家から養子を迎えることになります。一橋治済の長男・家斉いえなりです。家治が、天明6年(1786)に病没したことから、翌年、家斉が11代将軍に就任します。

家治は、少年時代には祖父・吉宗に期待をかけられ、鋭敏でしたが、将軍に就任してからは、老中・田沼意次が実権を持ち「田沼政治」を展開したことから「凡庸」という評価があります。その家治の正室となった倫子は、明和8年(1771)8月に病で亡くなります。まだ34歳でした。夫から愛され、子どももできて、短いながらも、幸せな生涯だったのではないでしょうか。

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。