「ジャズ・カルメン」の評判は良くなかったが…
残念ながら、服部が心血を注いだ『ジャズ・カルメン』の評判は芳しくない。「その企画は買えるのだが、現実に舞台に現れたものは至極安易平凡で、新しさとか野心的意図は全く見られないといっていい(略)全体にもっと徹底した近代化が大胆に行われていない点不成功といわざるをえない」(世界日報1947年2月7日)。
主演の笠置も、妊娠中で大きな動きができなかっただけでなく、「歌唱法には初めから限界があり、その上こんどは、いつもの生気がなく、非個性的である」(東京新聞1947年2月5日)。笠置の体調を考えると酷な批評ではあるが、いくらスウィング版とはいえ、そもそも笠置がオペラ曲を歌うのには無理がある。ただ、「もっと徹底した近代化」を望む批評からは、こうした方向性自体は社会的に広く認められていたことが伝わる。
妊娠中にもかかわらず『ジャズ・カルメン』に出演した笠置は公演後休養し、出産直前に恋人エイスケと死別する。恋人を失った悲嘆の中、忘れ形見の愛児・エイ子をひとりで育てる決意を固めた笠置に依頼されて服部が作った新曲が「東京ブギウギ」だった。
出産前に恋人と死別した笠置のため「東京ブギウギ」を作曲
と言われて、ぼくは彼女のために、その苦境をふっとばす華やかな再起の場を作ろうと決心した。それは、敗戦の悲嘆に沈むわれわれ日本人の明日への力強い活力につながるかも知れない。
何か明るいものを、心がうきうきするものを、平和への叫び、世界へ響く歌、派手な踊り、楽しい歌……。
このような動機と発想から『東京ブギウギ』は生まれたのである。(『ぼくの音楽人生』)
しかし服部が「ブギウギ」のリズムを用いるのは「東京ブギウギ」が初めてではなかった。
服部の自伝によると、「この八拍の躍動するリズムは、ぼくは昭和十七年ごろ、『ビューグル・コール・ブギウギ』の楽譜を手に入れて知っていた」という。服部が「実地応用」を試みたのは、「すでにジャズ禁止の時代に入っていた」1943年の映画『音楽大進軍』で大谷洌子が歌った「荒城の月」においてで、これはラジオの国際放送でも放送したという。