復員した服部良一が企画した舞台に、妊娠中の笠置が主演
この「ハイライト」公演中の12月初旬、服部良一は上海から帰国し、日劇の楽屋を訪れている。服部は1944年6月に陸軍報道班員として宣撫活動に従事していた。自伝によれば、「いかめしく軍刀を腰につるした奏任官佐官待遇」だったが、「音楽家として、自由に外国人と付き合っていただきたい」という指示があったという。自由に振る舞うことが日本の文化的な宣伝になる、ということであって、戦争に加担していなかったということではもちろんない。
そして1947年1月末、笠置が妊娠中に主演した『ジャズ・カルメン』が日劇で初演を迎える。ビゼーの有名なオペラをジャズ編曲で上演するという試みで、服部の提案だった。笠置の自伝によれば、前年の9月に上演する予定が、東宝のストライキで延期になっていたという。
笠置の相手役は藤山一郎が降板し、新人の石井亀次郎が務めた。ちょうど当初の『ジャズ・カルメン』公演予定期間と重なる『音楽の友』1946年10・11月合併号には、服部の自伝的エッセイ「スウィングへの遍歴」が掲載されている。その結びは「今新しい気持でスウィングミュージックの研究にそしてシンホニックジャズにスウィングオペラの製作に夢中になって居ります。思えば戦時中あんなに排撃されたジャズであり、スウィング音楽であったものをと感慨無量の思いが致します」というものだ。
占領国アメリカの音楽であるスウィングの地位も高まった
『音楽の友』の、しかも「音楽の芽生えの為に」と冠された教訓的記事であり、服部にしてはやや優等生的な記述にも思えるが、大衆性を備えた交響的作品への志向は服部の経歴の中で一貫している。
「戦時中あんなに排撃された」という本人の感慨は偽りのないものだったに違いないが、日米開戦前にはジャズやスウィングは必ずしも「排撃」されていたわけではなく、昭和10年代の服部の「日本のジャズ」への志向とも重なる。むしろ、敗戦翌年の『音楽の友』に、「スウィング」を表題とする服部の自伝が掲載されたことは、戦勝国・占領国アメリカの国民音楽たるスウィングの社会的地位が、日本国内の高尚な音楽界の中で高まったことを示唆する。
クラシック曲のジャズ編曲という方向は、アメリカのシンフォニック・ジャズやセミ・クラシック的な音楽がWVTR(占領軍放送)を通じて容易に耳に入ってくるようになったことが大きな背景として考えられるが、高尚な音楽を大衆化させる、という戦中の啓蒙教化的な「軽音楽」観とも親和的であることには注意が必要だ。